『墓泥棒と失われた女神』と百年の孤独、アリーチェ・ロルヴァケルとガルシア・マルケス
毎作品アリーチェ監督はイタリアの田舎を舞台に、
魔法のような演出方法で観客を魅了する。
まるで夢と現実が交錯する世界を描くかのように、
その美しさには息を呑む。
しかし、
その一方で、抽象的過ぎるシーンも多い。
例をあげると、
本作は登場人物が多いのに加えて、
盗掘チームの人数が多すぎる。
彼らの存在はシナリオにおいて意味があり、
それなりの役割も果たしているが、
その意味が観客には伝わりにくい分、
ストーリーを理解、追いかける妨げにもなるだろう。
反対に抽象的でも機能しているのは、
ギター弾きとトライアングラー。
歌詞とリズムが主人公の感情、
作品の狙い、
過去作までもトレースするようで、
結果的には良かった。
観客にとっては思考の拠り所として重要な手がかりにもなった。
他に機能していないシークエンス、
廃駅の占拠前と占拠後の意味はわざわざセリフにしたり、
電車の乗客と船の乗客のセリフの意味や、
法則のなさそうな解像度の違う絵、
お宝発見時に逆さまになる撮り方も、含意が観客を混乱させる。
逆イエスのシンボルは他の作品でも見られるが、
ワイダの「灰とダイヤモンド」へのオマージュか、
幸福のラザロと不幸のイエスの対比なのか、、、、
本作の流れとは無関係そうだが、
アリーチェ作品の流れとしては、
そう解釈しない方が不自然だ、不要な混乱を招く。
全体的に、
この作品で、
やらなければならない事、
不必要な事を整理し、
的確な描写方法を編み出して、
それが上手く機能していれば、
もっと素晴らしいものになっていた。
もちろんアリーチェ作品は、
シナリオも含め演出方法は多くのファンに愛されているので、
このままで良い、
このままでないと、
イザベラ・ロッセリーニも、
ジョシュ・オコナーも、
キャスティング不可能だったかもしれない、
という意見も十分に理解できる。
だが、
観たままの率直な意見の一部を言うと以上だ。
オールタイムベスト級、百年のベスト級になり得る可能性を秘めていると感じるだけに、少し残念。