書くリハビリと次女のこと。
玄関に小さな靴が2つ並んでいる。1つは全然履かないうちにサイズアウトした次女のファーストシューズ。もう1つは最近買ったセカンドシューズ。最近歩けるようになった彼女に試しに履かせてみたら全然歩けなくって、まるではじめてスケート靴を履かせられた子どもみたいにおぼつかない素振りで重たそうに足を持ち上げたりしていて、結局コンクリートの地面をハイハイするばかりだった。怪我するからやめなよと思う私を他所に、本人は気にすることなく硬い地面をどんどん進んでいった。真っ白いスニーカーはあっという間につま先のところが擦れて汚れた。春だ。
次女が生まれてもう1年が過ぎた。あっという間に1年と2ヶ月が過ぎた。彼女は12月28日に生まれた。年末の静かな病院で。病院それ自体が貸切りなんじゃないかと思うくらい人気のない病院で次女とひっそり過ごした日々からもう1年か。それはそれは目まぐるしい1年で、立ち止まって成長を記録するような余裕も無かったことを今更ながら申し訳なく思ったりする。
大抵0歳児と過ごす1年はこうなる。自分が母以外の何者でもなくなりだんだん透明になっていく。0歳児という儚くて神秘的な生き物と過ごす時間は一生の内で何度と無いのだから、育児だけに専念できるのは有難いことだと頭では分かっていながらも、自分の存在価値を考えた時にふと落ち込んだ。それならと自分のしたい事に打ち込む時間を用意したりもしたが、つい溜まった家事に手が伸びて身が入らない。それでまた落ち込んだ。
きっとホルモンがそうさせるんだろうと思う。赤ちゃんがお腹に来て産まれて1年経つ頃まで、私の脳みそは完全に母モードに切り替わっていたのだ。1年過ぎて、やっと書けるようになった。次女がお腹にいた時に書かなければならないものがあって、なかなか思うように書けなくて苦しみながら書いた覚えがある。
次女の背中にあった痣はもうほとんど消えてしまった。次女を取り上げてくれた先生は私を気遣って「大きくなったらレーザーで消すこともできるから」と声をかけてくれたけれど、私はそのつもりはなかった。もう少し大きくなったら天使の羽が生えていた証拠だよと教えてやるつもりだった。でも本当に思うのは、赤ちゃんは神様からの預かりものだということ。神様から預かった天使は、1歳になったらまた神様のもとに帰っていく。1年が過ぎたって暮らしは続いていくのだけれど、最初の1年間っていうのは何にも例え難い特別さがある。その間にもどんどん成長してどんどん変わっていく。いくら見つめても足りない。
次女はいつも笑っている。長女の使っているものをいつも触りたがって怒られて泣いて、目を離すとすぐダイニングテーブルに登っている。もう読んで欲しい絵本を自分で持って来られるし、ひとりで歩けると満足そうな顔でこちらを見てくる立派な1歳児になった。私のところに来た天使はちゃんと神様にお返しすることができた。大仕事を終えた満足感と共に、母モードの脳みそも通常に戻りつつある。決して楽ではなかったけれど、幸せな1年だった。ありがとう私のところに生まれてくれて。さようなら私の天使ちゃん。