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冒険研究所書店は「不自由の牢獄」

ミヒャエル・エンデの作品のひとつ「自由の牢獄」は、ある男が無数のドアがあるふしぎな空間に落とされ、どれでもひとつのドアを自由に選ぶことができるが、結局どれを選ぶこともできずに永遠の時間をそこで過ごす、という話。

無限の自由を与えられると人間は不自由になってしまうという、文明批評的な童話だ。

なぜ際限のない自由を与えられると、不自由に陥るのだろうか。その理由の一つは「選んだもの」ではなく「選ばなかったもの」への執着だろう。

例えばメニューの豊富なパスタ屋に入った時に、カルボナーラにしようか、ペペロンチーノにしようか、ジェノベーゼもいいし、いやたまには和風もいいが、ボンゴレなんかも捨てがたい…。と考え出して、ペペロンチーノにしようと決めたはいいが、熟考した割には美味しくなかった、ちくしょー、正解はジェノベーゼだったか、いや和風だったかも、と「選ばなかったもの」への執着が残る。

人は無限の選択を与えられた時、その中から「最善」を選ぼうとする。しかし、大抵の場合は隣の芝生は青く見えるもので、選択したもの以上に選択しなかったものが魅力的に感じてしまう。

何かを選択するとき、潜在的に「選択しなかったもの」への心残りが頭を過り、後悔したくない、きっとより「最善」があるはずだと考えているうちに、やがて何も選べなくなってしまう。

「自由」とは「意思」の双子だ。自由を意思で行使するとき、自由への後悔は意思への後悔となる。「自由」と「意思」の別の兄弟が「責任」だ。自由を意思で行使した時に、その責任を負うのは「自己」だ。

うちの書店には3500冊ほどの本がある。何を買っても良いが、結局なにも買わずに、いや「買えず」に帰る人もいる。書店に来たらただ見て帰ってももちろん良いのだが、何を買ったら良いか分からず帰る人もいる。

書店とは、ある種の「自由の牢獄」だ。何を買っても良いが、選ぶのがなかなか難しい。だからこそ、全てではないが、私はなるべくお客さんと話す。話したくない人もいるので、様子を見て声をかけたりかけなかったりするが、なるべく話したい。

うちの書店では、古本の書棚を全く規則性もなくランダムに並べている。恋愛小説の隣に銀座の本があったり、ハイデガーと料理本が並んでいたりする。

これは、極力「恣意的」な本の選び方を避けようとしたためだ。自分の意思で著者を選んだり、意思でジャンルを絞ったりさせない。ある意味で「事故」を誘発させる仕組みだとも言える。

交通事故にも、過失割合というものがある。両者のどちらに何割の責任があるかを配分するものだ。本との出会いを事故的に誘発することで、責任をお客さんだけに負わせない。責任の所在を「自己」のみから解放されると、意思からも解放されて「自由」からも解放される。

「自由の牢獄」が自由の不自由性を説いた作品であるならば、冒険研究所書店は「不自由の自由性」を意識した書棚となっている。

つまり、何が言いたいかと言えば、うちの書店で本を買ってね、ということです笑笑

選書サービスも開始したので、見知らぬ本との事故的出会いを楽しんでください。

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