「禅とオートバイ修理技術」を読む

ロバート・M・パーシグ著、五十嵐美克訳「禅とオートバイ修理技術」を読んだ。

1974年に刊行された上下巻で700ページほどになる大著。難解な箇所もあるがとても読みやすかった。

著者のパーシグは、15歳で飛び級を重ねてミネソタ大学に入学するが、2年次に落第。その後、大学で修辞学の講師となるがやがて精神に異常をきたし、脳に電流を流すETC治療によって過去の記憶を喪失する。

快方に向かう中で、1968年に息子と友人たちと連れ立ってオートバイ旅行に出かけた旅を記したのが本書だ。構成としては、小説風に旅の様子が進められ、そのなかで精神世界へと思索を深める二重構造になっている。

旅の中でパーシグは、失われた記憶を追い求めるように、自らの過去の足跡を辿っていく。そして「パイドロス」と呼ぶ自身の失われた記憶に次第に触れ、自らがかつて追い求めていた「クオリティ」の正体に迫る。

カント、ニュートン、アインシュタイン、ポアンカレ、プラトン、ソクラテス、アリストテレスなどの様々な科学的哲学的検証を重ねながら、思索を深めていくうちに、真理である「クオリティ」に到達していく。パーシグ自身と、失われた自身の記憶である「パイドロス」が思考を深掘りしていく様子を、読者も共に歩んでいく、そんな本だ。

パーシグが書き記した原稿を121人の編集者に出版を断られ、122人目に出会った編集者が「この本には出版を決意させるだけの説得力がある」と言って出版したところ、大ベストセラーになったというものだ。

不思議なタイトル「禅とオートバイ修理技術」であるが、この本を読んでも実は禅について語っている箇所はほとんどない。しかし、読んでいくうちにパーシグの語る言葉に潜む禅的な思想に触れる事ができるだろう。主客一如、身心脱落、または老子の「道」などの東洋思想が垣間見れる。

オートバイのメンテナンス中、ひどく固着して回すことのできないネジと対峙する。その時、行き詰まりに関してパーシグはこう述べる。

「行き詰まりという問題の根底に横たわっているものは、「客観性」、つまり実在を主体と客体に二分する原則を強調し続けてきた合理性にあると思う。なぜなら、真の科学は確固たる主客の分離を行わなければならないからだ。「修理工がいてオートバイがある。両者は永久に別個の存在である。修理工がオートバイにあれこれと手を加える。するとそれぞれがぞれぞれの結果を生む」
オートバイに接して、主体と客体という永遠の分離を果たしてしまうこのやり方が正しいように思えるのは、私たちが二元的なものの考え方になれてしまったせいである。だがそれは間違いである。二元的なものの考え方をすることによって、私たちは常に現実の上に人為的な解釈を重ね合わせてきた。結果的にそれは現実そのものからはるかに遠のいてしまった。こうした二元性を完全に受け入れてしまうと、修理工とオートバイとの間に存在する分離できないある一定の関係、つまり仕事に専心する職人気質といったものが失われてしまう。従来の合理性は世界を主体と客体に分けてしまうが、そうなると「クオリティ」は締め出されてしまう。だが、行き詰まった時に進むべき道を教えてくれるのは、主体でも客体でもなく、それは「クオリティ」そのものなのだ。」

道元の「身心脱落」や柳宗悦の「民藝」の思想を感じる。

パーシグの言う「クオリティ」とは、主体と客体の分節以前の「実在」だ。

「バイクの修理に取り組むときに心がけるべきことは、他の仕事と同様、自他の分離をしないような心の落ち着きを養うことなのである。これがうまく行けば、そのほかいっさいがおのずとこれに従うことになる。心の落ち着きは正しい価値を生み、正しい価値は、正しい思念を生む。また正しい思念によって、正しい行為が生まれ、これによって仕事は、誰が見てもその中心に静謐を湛えた一つの実体となって現れてくる。(中略)精神的な実在が、一つの実体となって姿を現したのである。」

またパーシグは、オートバイのメンテナンスからテクノロジーについて考察を深める。

「大量生産されたプラスチック製品や合成品がそれ自体悪いというわけではない。ただ連想がまずいのだ。人生のほとんどを石に囲まれた刑務所で送った人は、たとえそれが彫刻にとっては重要な素材であっても、石を見れば醜いと思う。幼児期に与えられたオモチャに始まり、生涯プラスチック製品の牢獄のなかで生き続けてきた人は、プラスチックを見て醜いと思う、しかし現代のテクノロジーの真の醜さは、いかなる素材、形状、製品にも見いだせない。それらは単なる客体にすぎず、一見そこには低い「クオリティ」しか存在していないように思える。つまり習慣によって、「クオリティ」を主観と客観に帰属せしめようとするために、こうした印象を受けるのである。(中略)「クオリティ」に関して言えば、その有無は主体、客体、そのいずれにも関係ないのである。真の醜さの原因は、テクノロジーを生み出す人々と、彼らが生み出す物との関係のなかに横たわっているのだ。つまり、テクノロジーを利用する人々と、彼らが利用する物との関係においても同様のことが言えるのである。」

これは、私が極地を歩く装備を自作する際に考えていることに近い。高機能のウェアを金で買って身につけるのは、どこかの誰かが作り上げてくれたテクノロジーを利用するだけの自分自身という、自分と物との関係性においての醜さを感じる。だからこそ、最近では自分で使うウェアは自ら作るようにしている。前述の文章の中にある「精神的な実在が、一つの実体となって姿を現した」状態に近付けていこうと、私はしているのだろう。

物の本質は、主体と客体のどちらに存するか?ではなく、主体と客体の関係性に存している。全体関連性においては、すでに主客の分節はない。テクノロジーの本質は、テクノロジー側にあるのか、使用者側にあるのか、そのいずれかではなく、テクノロジーと使用する人間との関係性にある。すでに得てしまったテクノロジーをなかったものとはできない。知ってしまったものを、知らなかったことにはできない。そこから逃避したり、無理に遠ざけたりするのではなく、正しく飼い慣らす必要があるのだ。懐古主義に浸ってテクノロジー以前に遡っていこうとしても、極端に抗う気持ちからはかえって価値観の硬直が発生してしまう。「囚われる」とは、価値観の硬直が引き起こす。パーシグが語る、価値観の硬直についての記述が興味深い。

「オートバイのメインテナンスにおける価値観の硬直を説明するうえで、最も分かりやすい実例を示せば、昔南インドで使われていた「猿の罠」を挙げることができる。この罠は、価値観の硬直に基づいてその効果を発揮できるように考えられている。実をくり抜いたココナッツのなかに米を入れ、それを鎖で棒ぐいにつないでおくのだが、小さな穴に猿が手を入れてなかの米を握ると、その手が抜けない仕掛けになっている。だが猿はココナッツに近づくと、突然この罠にかかってしまうーーそうさせるのは猿自身の硬直した価値観以外の何物でもない。猿にはその米を再評価することができないのだ。米を離せば自由になるという価値が見いだせないのである。村人たちが捕まえにやって来る。だんだん…だんだん近づいてくる!…いまや逃げのびる道はなく、絶体絶命の危機にさらされている!こんな情況にある哀れな猿に、いったい私たちはどんな忠告をしてやればいいのだろう?」

パーシグと息子の旅は「クオリティ」に到達し、失われた自身の過去である「パイドロス」についに出会う。最後には、えもいわれぬ感慨が胸に去来する。これは、序章から読み進めていくことで理解できることだろう。

何度か読み返すうちに、きっと新たな発見に満ちている、そんな本だと感じる。



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