【目印を見つけるノート】112. 雨とほんの少しだけ20世紀のアメリカ文化
九州がまた大雨に見舞われています。四国も中国も……雲の様子を見たら朝鮮半島もです。どうか、もうこれ以上の雨は遠慮してほしいです。
そのような中、新たな活動に向かうnoteの書き手さまの様子をまぶしく拝見しています。
ものを創るというのは人に与えられた大きなギフトだと思うばかりです。
それを文化と置き換えてもいいのではないかと思います。
個が動いているカルチャーでしょうか。
⚫雨へのお願い、人としての願い
今ここにある豪雨については即時停止を要求するばかりですが、雨の詩をひとつご紹介したいと思います。
一晩中、ざわめきがまた、
もどってきていた。そして、
また、静かな雨が
ひっきりなしに降っている。
ぼく自身にとって、私とは何だ?
想いださなければならない
私とは、どんなときも
強調される私とは?
私という、けっして
気楽なものではなく、むしろ厄介なものが、
降ってくる雨のせいで、
ぼくにとって、
何か、他の、何かになる。
このようなものでなく、もっと他の、何か。
そんなに固執すべきでない、何かーー
私という究極の不安のなかに
ぼくは、閉じ込められるべきなのか。
愛は、きみがぼくを愛するなら、
ぼくのかたわらに横たわる
愛は、ぼくにとって、
脱けだすことであれ。
疲労から、
愚昧さから、
脱けだすことであれ。
無関心への惑溺から、
脱けだすことであれ。
うるおされることであれ、
雨のように、
穏やかな幸福に。
ロバート・クリーリー『雨』
出典『詩は友人を数える方法』長田弘(講談社)
ロバート・クリーリー(1926-2005)はアメリカの詩人です。チャールズ・オルソン、ロバート・ダンカン、アレン・ギンズバーグらと親交があり、60にのぼる本を著しました。
アメリカ文学というと、『トム・ソーヤ』や『若草物語』など19世紀後半の小説をまず思い浮かべます。詩人ならホイットマンですね。
そして、音楽やカウンターカルチャーに興味を持つ人は20世紀半ば以降のビート・ジェネレーションの旗手たち、アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアック、ウィリアム・バロウズを見つけることができるでしょう。
その流れはボブ・ディランにも脈々と受け継がれていますね。あるいはザ・ブルーハーツといってもいいかな。『TRAIN TRAIN』や『青空』はね、そうですね。
なにげに今日の気分で。
ボブ・ディランの『RAINY DAY WOMAN』です。
そのふたつの文化的潮流の間は空白ではありません。
そこにもたくさんの表現、文化活動がありました。この前お出しさせていただいたウディ・ガスリーがそうでしたし、ブルースやジャズもその間に生まれました。写真、そして黎明期の映画というメディアもあっという間に広がっていきました。
美術ならばベン・シャーンのような社会風刺も描いた画家が目を引きます。文学ということなら、フィッツジェラルドはその時代の寵児でしょう。
アルフレッド・スティーグリッツとジョージア・オキーフのように写真家と画家のカップルもいましたね。
詩という分野でもたくさんの詩人が現れました。最も有名なのはラングストン・ヒューズ、セオドア・レトキ、チャールズ・オルソン辺りでしょうか。クリーリーはその中でも私が好きな詩人です。
こういった文化の流れというものは、解説を読んだだけでは決して身につかないものだと思います。私も自分が身につけているとは思っていません。
まだ途中です。
教えてくださいね(とびきりのスマイル)。
それでも、それらひとつひとつに浸ることで、その息づかいを感じられます。
クリーリーのこの詩は、長い雨のときに必ず思い出します。特に長田弘さんのこの訳で思い出します。
『詩は友人を数える方法』はアメリカの紀行文でその間にアメリカの詩を混ぜています。これでアメリカの詩というものの面影を知ることができるでしょう。
何より、自分の肌で感じたこと、それが詩とひとつになっている。
とても美しい、素敵な本だと思います。
今は文庫にもなっていると思います。
この本を読んだら、アメリカを車で移動したくなります。どなたか、ドライバーをしてください(懇願)。
何より、降りしきる雨が穏やかになって、救いとなってくれることを心から願ってやみません。
⚫お籠りクラフトとばら
きょうは光に強く応える取り合わせです。真ん中のムーンストーンは弱い感じもしますが、青い強い光を抱えていて、なにげに主人公です。
そんな存在になりたいですね。
ばらにはがんばってほしいです。
それではまた、ごひいきに。
おがたさわ
(尾方佐羽)
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