【目印を見つけるノート】1622. 東京湾にたどり着く
よく寝ました。ふわあああ。
ということで昨日の続きを書くことにします。呑川(のみかわ……世田谷・目黒・大田区を流れる川)を河口(東京湾)に向かうお話です。
糀谷(こうじや)にいます。
ここでも防潮堤工事をしています。
八幡橋まで来ました。
ここもさきに書いた天神橋と同じで、すぐ脇に子安八幡宮があります。参拝します。春日社、稲荷社なども合祀されていますので、地域の中心的なお社だろうと思われます。
こちらは六郷用水を築いた小泉次太夫吉次に少し関わりがあります。用水工事を完遂した次太夫はこの土地の川崎にかけての代官に任命されました。預かった土地には変遷があったようですが、代々地頭としてこの地に定着しました。
安永3年(1774)には六代目・小泉藤三郎包教(かねのり)の武運長久を願って総氏子が石鳥居を奉納しました。それが残っています。区でも明神型として最古のものだそうです。
時代劇では代官というと商人から袖の下というイメージですけれど、小泉家の場合は逆のようです。それだけ、一帯の土地に水を通したことを感謝されていたのでしょう。もともと汽水域で稲作に向いていなかった土地かもしれないですね。そして、地頭になって地域の人々と善く繋がっていたのかなどと想像するのでした。
そして、川は産業道路(国道131号)をくぐります。新呑川橋です。産業道路って、首都高を除けばいちばん海よりのイメージですね。あとは空気があまりよくない……でも、この日はそれを感じなかったかな。
ここはフェンスの間を抜けていきます。橋の工事中です。
これまで工事現場はいくつか見てきましたが、この現場が一番の規模でした。
産業道路を越えたら最下流域になります。
それを楽しみにしていたのに😱😱😱……と上流から来たら思うことでしょう。私は河口から上りましたが(文章は逆で書いています)、やっぱり残念だった。
河口に至る川筋には船が係留できるようになっていますが、不法係留が多いからでしょうか。緑道への立ち入りができなくなっています。人の出入りは閉じておくということでしょう。工大橋から新呑川橋まで、いわゆる川の流域のほとんどは、ほぼ川べりを歩けました。それがこの、最後の最後に迂回しなければならないという、ガックリ感。
確かにこの先は、どこかのマリーナかと見まがうほど船がズラリと縦列しています。普通の船舶だけではなく工事の船や救助船だったりもするのですが。
まあ、気を取り直していきましょう。
この辺りは羽田空港や昭和島などの人工島を除けば、陸地の端の方になります。迂回して歩いた印象を一言でいうなら、中小の工場がものすごく多いです。ですので紙のにおい、有機溶剤のにおい、金属のにおい、全部ひっくるめて工場のにおいが方々に漂っています。
私は町工場の多い荒川区で育ちましたので、どこか懐かしい匂いです。
この辺りは京急の大鳥居駅か京急バスの森ケ崎行きのどこかが最寄りになるのかと思いますが、交通至便なところではありません。観光地もない。本当に、工場か昔から住んでいる人の町という感じです。マンションは時折ドンとありますが、お買い物は車の方がいいのではないのかな。車で少し行けば大型スーパーもあったりします。
あと、小さい橋がちょっと楽しかったです。ドンと盛り上がった太鼓橋を渡るような感覚です。
途中の公園でパンをかじって昼食。
雀さんたち、暑いねえ👒
結局、東橋・末広橋・藤兵衛橋・旭橋までの区間は迂回することになりました。
旭橋の先はまた川べりの道が復活します。
旭橋、ここが呑川の最後の橋です。
やったー!川べりだと思ったのも束の間、フェンスが高くて川がよく見えません。まあ、いろいろあります。安全を考えれば仕方のないことですが、川べり一点集中という側面から見ると……。
遊歩道を歩いていくと、最初は舗装されていますが最下流部は野の道、冒険しているような気分で楽しいです。
立派に整備されているのもいいですが、人っ気もなく野の道なのも趣があると思いました。
結局、ちょうど河口の部分、私のいた側からはドンピシャで見られませんでした。海になった部分で失礼します。
ここで終わりにしてもいいのですが、ちょっと寄り道することにしました。
今の呑川と昔の呑川の流路は変わっています。昭和10年(1935)に蒲田の辺りから付け替え(流路の変更)をしているのです。
この『付け替え』という言葉は小説を書いているときよく使います。特に伊達政宗と水野勝成のお話のところで出しました。
旧の呑川は今よりわずかに北。埋め立てられ緑道になっていますが、地図を見ると河口部分でわずかに水色になっています。そこに寄り道しました。
呑川は正確にはえびとり川に注いでいますが、えびとり川は運河のような短い川ですので実質的にはほぼ東京湾と言っても問題ないと思います。
海、とはいってもモノレールのレールと首都高1号線を右手に見つつ進みます。散歩のおじいさん(なぜおじいさんばかりなのだろう🤔)と時たますれ違う以外は人もおらず静かです。飛行機の音もしないのは、滑走路がかなり離れているからでしょう。
右手の対岸は羽田空港、そして昭和島です。
ここから鳥との素敵な邂逅があったのでした。
時々鳴き声が聞こえたけれど、ウミネコ?ですか。
ウミウもいました。
もう少し行くと……おおっ、ええっと、ダイサギかなチュウサギかな、とにかくサギです。
その奥にはアオサギもいました。
もしかすると河口は素敵な野鳥ポイントなのかもしれません。
そして、旧・呑川の名残の水路に付きましたが、フェンス・壁・フェンスが……。フェンスにかぶりついてようやく1枚撮りました。
つくづくルートをこの文章とは逆の河口から遡上にしてよかったと思いました。河口付近は順当にいかないことばかり、だから楽しいのですが、始めにそれを越えるのと、疲れて最後に目の当たりにするのとでは、大違いです。
最後にこちらの看板を1枚。
ここに来るまでにいくつか案内板を見てきましたが、下水道の処理については川を知るのに押さえておきたいところです。ということで、じき見学に行く予定です。
ひとつの川を暗渠になる地点から河口まで歩きました。だいたい10kmプラスうろうろという感じです。
水のきれいなところ、そうでないところ、小さな流れ、大きな流れといろいろありますけれど、通して歩くとよくも悪くも人の生活を映しているなと思います。
川が汚れるのは汚れた水が入ってくるからです。元から汚れているわけではありません。もちろんゴミを捨てる、投げ入れるなどは論外です。
汚れても汚れても川は流れていきますし、誰も見ていないようなところ手入れしている皆さんがいます。
「ああ、きれいだね」とか「うわ、汚いね」という時に、なぜそうなっているのか知る機会、知ろうとする気持ちがもっとあればいいと思います。
歩きながら、そんなことを考えました。
このルートは以前、父がよく散策していました。
蟹をとった、魚をとったと子どものように話してくれました。蟹を飼っていたこともあります。一度そのルートを辿ってみたいと思っていましたが、なかなかできませんでした。
呑川のルートは父のタイムマシンだったかもしれません。
東工大の側の病院で私は生まれました。
そして父は最近まで羽田に住んでいました。この川は父の時間軸の点から点を結ぶものだったのではないかと、私は思ったりします。
確かめようはないのですけれど。
昨日で忌中が明けました。
父が急に亡くなって、私は喪主とやらになったり、手続きをしたり、妹と部屋の片付けをぐわあっとしたり8月はまるまるそれで、悲しんだりしている余裕がありませんでした。
親(実家)の部屋じまいは本当にたいへんだというのがしてみての実感でした。妹のおかげです。
親を送るのは子としてすること、人生で多くの人が出会うことです。
人生の必修科目といえるかもしれません。
忌中のうちに宿題のように感じていた川歩きができてよかったです。
合掌。
今日はサンタさんが中2のクリスマスにくれたThe Beatles の青盤に入っているこの曲を。
The Beatles 『Fool On The Hill 』
この曲はリコーダーのソロがあってとても好きでした。中学生は軒並み持っている楽器でしたので。それと、物語というか象徴詩のような歌詞もいいなと思いました。
とても欲しいものが、リクエストしないのに来たので感激したことを覚えています。
私の生命を始め、いろいろなプレゼント、ありがとうございます🎁
それでは、お読み下さってありがとうございます。
尾方佐羽
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