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【目印を見つけるノート】292. 「芸」を育てる土を耕すこと

背中と太ももの裏に覚えのない切り傷がありました。自分で切れる場所でもないなあと不思議です。

自分の身体なのに、自分で見えない部分があるということも。

傷ひとつ(いや、複数)にも考えることはできるのだなと思いました。

⚫サグラダ・ファミリアがんばれ

今日は『16世紀のオデュッセイア』という小説の更新日です。
ふっと見たら128万5000字になっていました(空白改行は抜きです)。
数量的にはそのようなことですが、まだ半分ぐらいかな、あるいは1/3かもしれません。

大長編のコミックスでしばしば見られますが、連載の初回と最終回で画が大きく変化していることがあります。それは、「いい、悪い」ではなくて、「時の変化」なのでしょう。

このお話を書こうとしていたときは「できるのかな」と思いました。完全に見切り発車です。それでも始めたのは、「きれいに推敲して完成してから出すことにしたら、一生できないだろう」と思ったからです。あと、他の小説を書きながらすすめようとも。
ですので、書いて出す連載の形にしました。
「それはダメ」と私の先生には言われたのですが、確かにデメリットはあります。
最初の方はツボがつかめなくて、説明に拠って流れが滞っている部分も散見されますし、資料からの引用も多い(wikipediaではないですが)。『君主論』(マキアヴェッリ)などしょっちゅう引いていた本もありました。他にも自分で突っ込めるところがたくさんあります😅

そのように3年4ヶ月、書いているわけですが、それで思っていることもあります。
・環境によらず続けることはできる
・変化の過程をガラス張りで示せる
・終えたときに必要な部分は直す

コミックスの例を出しましたが、同じものを続けていても変化が起こります。それも引っくるめて、ガウディのサグラダ・ファミリア教会のような、「いつ完成するんだろうね」というものでいいのかなと思います。

脱線。

サグラダ・ファミリアは2026年完成(目標)はちょっと厳しいのかな。
この小説もそれぐらいまでかかるかもしれません。

2014年に『ガウディ×井上雄彦 -シンクロする創造の源泉-』展を六本木で見ましたが、あれは素晴らしい、本当に素晴らしい展覧会でした。特に、井上先生が描いた、見上げるガウディ少年と、見上げる年老いたガウディの絵が今でも目に焼き付いています。
【情報はこちら】
https://www.museum.or.jp/event/82855

あんまり素晴らしかったので、触発されまくって自分で画用紙に展覧会をコラージュして、子どもの夏休みの宿題として持たせてしまったほどです。
(個人の宿題としての使用限定です)

あ、興奮しました😅

⚫芸と耕すこと

この前、何百年も受け継がれてきた刀や能面を見ていて思ったことがあります。

これは「芸」だなと。

実用のもの作りは「工芸」といわれます。
文章ならば「文芸」。
絵画や音楽や劇や舞踏は「芸術」。
舞台でお客さんを楽しませるのは「演芸」。
どれにも「芸」がつきます。

「上には上がいる」のが芸。
「受け継がれていく」のが芸。
「必死に鍛練する、常に精進する」のが芸。
「他には真似できない」のが芸。
(模倣は鍛練の過程です。パクリとは全く違います)
そして、創造を突き詰めようと
道を進むのが芸だと思うのです。

刀や能面がそのようなことを改めて
教えてくれたように思います。

そのような「芸」も、
精進し続ける人の「場」も、
それを生み育む土壌が枯れてしまうと、
乾いてひび割れて、花が咲かなくなってしまうと思います。

今その土壌は「荒地」になっています。
それは、このような情勢だからというのもありますが、
促成栽培の用途で広大な土壌を使ってきた結果であるとも思います。
耕さなければ。

喩えです。

文化というものについては、引き続き断続的に自分の思うところを書いていこうと思います。

⚫今日の1曲

ポール・ヤングの『Everything Must Change』です。

この人はソウル、R&Bが大好きですよね、とすぐわかります。ただ、それだけで歌えるわけではありませんし、ましてや素敵な曲も創れないだろうと思います。

それではまた、ごひいきに。

尾方佐羽

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