【目印を見つけるノート】609. 進む先の光景は、進んだひとにしか見えません
今日は12月3日にまつわるお話をひとつします。
今日はフランシスコ・ザビエル(1506~52)の命日です。カトリック教会では天に帰った日といわれます。ザビエルは聖人となっていますので、今日がフランシスコ・ザビエルの日となっています。
歴史の教科書に必ず載っている方です。試しに現在の中学校の教科書を開いてみました。
載っています。
イエズス会の宣教師で、1549年、日本に初めてキリスト教を広めた人です。そのことはどの教科書にも書いてあるかと思います。今日はそれ以外のことをいくつか。
⚫どこの国のひと?
ザビエルはどこの国の人でしょうか。
ポルトガル人、とお答えになる方が多いかもしれません。ポルトガルの船でやってきましたし、ポルトガル王の使節という役目も持っていましたから。
違います。
おそらく、紹介している場合は「スペイン人」としているのではないかと思います。それは合ってもいるし、ちょっと違っていたりします。
彼は現在のスペイン・バスク地方にあった、ナヴァーラ王国の出身です。当時の首都は、今も『牛追い祭り』で有名なパンプローナです。
彼のお父さんはナヴァーラ王国の宰相でした。シャビエル城という城も持っていて、恵まれた幼年時代を過ごしていました。
しかし、王国はスペインとの戦いに敗れ、皆城から追いたてられました。フランシスコのお父さんは失意のうちに病気で亡くなります。そして、フランシスコが10歳のときに住んでいた城も破壊されてしまいます。
ですので、彼をスペイン人というのは少し抵抗があります。当時のナヴァーラ王国の出身、というのがいいと私は考えています。
司馬遼太郎さんの『街道をゆく22 南蛮のみち1』というご本には司馬さんがザビエルのお城を訪問した話が出ています。ここでは、「バスク人」と書かれていますね。
臨終のとき、彼はポルトガルやスペイン語ではない言葉を話していたと伝えられています。故郷のバスク語ではなかったかと想像できます。
⚫臨終の地
臨終の話が出たので、そのお話を。
どこで亡くなったのでしょうか。
彼は日本に1549年から51年まで滞在しました。そして、山口や大分で宣教する許可が出たので後を同行者に任せて、いったんインドのゴア(ポルトガルの一大拠点)に戻ることにしました。彼はイエズス会の創立者の一人でしたので、東アジア全体の宣教を任される立場だったからです。
ゴアに戻りしばらく現地の差配をすると、彼は再び海に出ます。
ただし、今度の行き先は日本ではなく、中国(明)でした。中国宣教に着手したいと思ったのですね。
世界史の教科書にも出ているのですが、この時の明は「海禁」という厳しい鎖国政策を取っていて入国するのが困難でしたし、彼が望んでいた皇帝に宣教の許可を願い出ることは不可能に近かった。
それでも、ザビエルは密かにでも上陸できる機会を待つため、沿岸の上川島で船を待ちます。マカオの少し南ですね。
結局船は来ませんでした。
そして、ザビエルは高熱を出して倒れてしまいました。
2週間ほど後、彼は回復することなく永遠の眠りにつきました。
中国宣教の志は引き継がれ、マテオ・リッチが1598年に皇帝への謁見を果たします。
マテオ・リッチが生まれたのはザビエルが永眠した年です。ここにもなにがしかの縁を感じます。
⚫前に進むひと
ふたつしか彼のエピソードを紹介できませんでした。「日本に来て宣教した」ということ以外はあまり詳しく伝わっていないですが、彼の人生は本当に波瀾万丈でした。
この書簡集はなめるように読みました。
私がザビエルについてまず思うのは、彼が「前に進むひと」だったということです。
留まることも、戻ることもできました。
パンプローナに留まることも、
ローマに留まることも、
船に乗らずリスボンに留まることも、
ゴアに留まることも、
日本に留まることも、
そして、
日本に戻ることも、
ゴアに戻ることも、
リスボンに、ローマに戻ることもできたのです。
折々の転換点がありました。
彼は留まることも、戻ることもしませんでした。
「この人は前に進むことしかしないのだ」と彼のお話を書きながらずっと思っていました。
私たちも、進むか留まるか迷うときが往々にしてあります。もちろん進むばかりが最善とは限りません。
ただ、進む先の光景は、
進んだひとにしか見えません。
彼の魂のためにお祈りします。
それでは、お読みくださってありがとうございます。
尾方佐羽