なぜ儲からないのにカフェをやりたくなるのか?
何か飲食をやりたいという人に話を聞くと、カフェをやりたいという事が多い。
カフェ、いいよねぇ。
憧れる気持ちはよ〜くわかる。
でも、儲けるのが難しくて、廃業しやすいのもカフェなんです。
なんせコーヒー1杯ワンコインで2時間とかいれちゃうから、お店側はぜんぜん儲からない。。。利益率低い×回転率悪い、のコンボです。
だから、ちょっと大人になって知見があると、カフェやりたいっていう人には反射的に儲からないからやめときなって言いがち。
これは僕も言いがちなのですが、ふと思ったんですよね。そもそも、なんでみんなそんなにカフェやりたがるのか?って。
お客さん側としての居心地の良さを再現したい?
単純にかっこいいのに敷居が低そう=始めやすそうに見える?
やっている自分に酔いたい?
ここら辺、ちょっと深堀すると今後の事業構想に役立ちそうな気がしています。
人は集まりたいのかもしれない
僕は割と個人主義というか1人でいるのが好きだし苦にならないタイプなのですが、それでもやっぱり気の合う人と会って話すのは楽しいです。
人間の欲求については本当に色々な説があって、広くみればどれも正解だし、個人差で見たらどれも完璧にはフィットしないと思います。
でも、最近感じるところでは「集まりたい・共感したい」っていうのがあるのかもと感じています。
何か飲食系のイベントとかに初挑戦=カフェか、酒場になる。それって上記の「集まりたい・共感したい」を簡単に満たせる方法なんですよね。飲み物を出すとかはぶっちゃけオマケ程度のキッカケとして、ってことが多い。
で、これに「うまいもん食いたい」とかがくっついてくると、いわゆるホームパーティー的な物になってくるのかもしれない。
もともと、よく言われる「おもてなし」や「接待」なんかもそうですが、食事を共にするというのはとても強力なコミュニケーションなんですよね。
コミュニケーションの触媒
国際会議とかでも晩餐会があったりして、そこではお酒や食事のセレクトにまで意図があります。それこそ古来から宴や祭と飲食は密接に結びついていました。
これら食事とコミュニケーションの歴史上の関係性を見ていると、今って色々なブランドがカフェやレストランをやったり、ポップアップでフードも含めた展開をしているけれど、これにも合理性が見えてきます。
それは、食をコミュニケーションのきっかけ=触媒として使っているということ。
つまり、飲食の提供はあくまでも手段であって、目的はそこに交流を生むこと。交流を産んだ結果のブランド露出による認知向上とか目的は色々あるんだろうけれど、そこでは儲けよりも優先したい何かがあるんだと思います。
おもてなしの晩餐会とかでは別に儲けは意識しない。イベントでのケータリングとかも、予算こそあれど参加者への無償でのふるまいだったりする。
使命(目的)と、価値や対価(手段)は別物。
目的へ進み続けるための手段であって、食=カフェをやることはあくまでも手段。そこが目的自体になると色々とズレてうまくいかなくなっちゃうのかもしれない。
ゴール設定こそカフェをやる意味
食をコミュニケーションの触媒にしようと思ったら、それが単発のイベント的なものなのか、常設で継続しておこうなうものなのかを考えた方が良さそうです。
ゴール設定というか、出口戦略というか、何かを始めるときには「どう終わらせるのか?」を同時に想像しておくことがとても大事だと思うんです。
なぜなら、どんな人だって1日は24時間だし、一生の時間は有限だから。
死ぬまでこれをって思えば、やっぱりちゃんとした対価も得ながらじゃないと続けられない。社会は結構シビアだから、美学を持ちながら儲けるのはなかなか難しい。
自分も箱を作って運営する側になろうとして思うのは、カフェの儲からない図式って低単価×低回転のせい。
格安の大箱なら低単価×低回転に対して低原価×多席数って相殺すればそこそこ軌道に乗るけれど、これをやるには初期投資と従業員をそれなりに雇って回すパワーも必要。
だから、自分でやるなら小箱で高単価×低回転の勝負に持ち込む方法を考えなきゃなんだろうな、と思っています。
極端な話、コーヒー1杯500円じゃなくて、どうすればコーヒー1杯5000円を払ってもらえるのか?
もしくは、コーヒーでは儲からなくても、他で儲ける仕組みを組み合わせられないのか?
そこを突き詰めるのもまた、飲食店を考えるおもしろさだと感じています。
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