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大学の授業は仕事の役に立つのか?を考えてみた。

こんにちは
イデアレコードの左川です、

リクルートワークス研究所の出した『あいまいな「〇〇力」による選考を問う 学びを評価する仕組みへ転換を』の記事を読んで、大学の授業は仕事の役に立つのか?ということについて考えてみたので、備忘録を兼ねてまとめてみた。

大学での学びは、問いを立ててそれを解き明かす経路を探し、実践して論文を書くという高度な知的作業であり、仕事の役に立たないはずがありません。しかし私も、ある文系学部の教授が高校生たちに向かって「大学の授業は仕事の役には立ちません」と話すのを聞いたことがあります。学問は実用性から距離を置いた方が高尚だという考えから言ったのでしょうが、大学教員が自分の提供する教育を「役に立たない」と言い切ることに憤りを覚えました。

『あいまいな「〇〇力」による選考を問う 学びを評価する仕組みへ転換を』より抜粋

自分自身は今はなき早稲田大学第一文学部の出身であり、大学の授業が仕事の役に立たないと言われる最前線にいた。大学では各授業について出欠の有無や試験方式、レポート有無などをまとめた冊子が販売されており、多くの学生がそれを熟読しながら選択をしていた。ただ文学部というのは幅広いジャンルを束ねていて、選択できる授業の幅は非常に広かった。文学に関することはもちろんのこと、心理学や社会学、生物学、映像や演劇などバラエティに富んでいた。

第1文学部は2年生から専修が分かれ、1年の成績によって命運が分かれる。その時代は心理学と社会学、演劇映像が特に人気で、いわゆる文学はその次に位置していた。自分は社会学専修に進んだのだが、そこからは文学部とは似ても似つかなくなってくる。社会学の理論はもちろんのこと統計や調査などが必須となり、文学部共通の授業は選べるのだが自然と選ぶ授業は偏ってくる。

本題に戻るが、「大学の授業は仕事の役に立つのか」についてだが、授業自体は直接的には役に立たない、が大学での取り組み自体は仕事の役に立ったと言えると思う。大学では正解のない険しい道を試行錯誤しながら、多くの失敗をするとともに成功体験を積むことができた。何かの知識を得るというのはほんの些細なことであって、大学時代というのはその過程にこそ意味があり、次につながる糧となるのではないだろうか、と思っている。

社会人で頭を下げることが出来ないのは致命的だ。
大学では試験直前に真面目そうな人に頭を下げて、ノートを見せてもらうことを何度もやってきた経験が活きた。

社会人では踏ん張り時の馬力が重要だ。
大学では締め切り直前になって一気に大量のレポートを仕上げることを繰り返したことで、それらを苦も無くできるようになったのは有難い。

社会人ではどうしても避けられない朝までコースの飲み会がある。
大学では飲み会やサークルで頻繁に徹夜していたので耐性ができていた。

社会人ではどんな状況でも平常心でいることが大切だ。
大学4年生のときに就職が決まっているのに38単位取らないといけない状況はさすがにしびれた。

上記はほんの一例に過ぎないが、これらを学生として経験できたことは非常に大きいと思う。社会人になって初めて出会っていたら、きっと腰がひけていたはずだ。

もちろんもっと真面目に授業に取り組んでいたら…と思うこともなきにしも非ずだが。それも含めてとはいえ、今の自分がいるのも大学のときの経験によるものが影響していると思う。

ん?
なんか本当に仕事の役に立っているのかは微妙な気がしなくもないし、自分が新卒の面接をしてもいいのかと思ったりもする。だが、そんな自分だからこそ、大学生の自己紹介に耳を傾け、仕事の役に立つかもしれない経験というのを抽出するのは得意だったりする。

繰り返しになるが、大学の授業は直接的に仕事の役には立たないかもしれないが、そこで自分で考え主体的に行動し、積み重ねてきた失敗や成功は血肉となって活きていくはずだ。


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