斎藤道三の終の棲家と地形のこと
今野富康です。
うちの近所に鷺山城跡というのがあります。
鷺山といっても標高68mしかありません。
城といっても、
ざっくり120m✕100mの方形の縄張りを持った館に近い。
ただし、周囲を囲む堀の幅は20mはあったと
推定される。三方を広い堀に囲まれ、背後を鷺山が盾となって守るわけだから、この館も城に劣らずまずまずの防御機能をもっていたといってよい。
平時に守護や守護代が政務を行う上では十分な施設であったとみても言い過ぎではあるまい。
・・・、なんとなく司馬遼太郎風?笑
てな感じで、いわゆるお城と言う感じはないものの、斎藤道三が息子の義龍に家督を譲ったあと住まったのが、この鷺山城とされています。
なんでここ?というのが、ポイントで、
鷺山は岐阜城のある金華山と濃尾平野の端っこまでの間に広がっただだっ広い平地の中にポツンと島のようにある山なんです。
どうも山の北端には「東山道」も通っていたらしい。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれる
承久の乱では武士たちが東山道からも京を目指して攻め上がっています。
それくらい古代においては重要な道。
そんなわけで、
この鷺山城もまたそれなりの要所ではあったんだろうと思います。
城のある場所は周囲よりちょっとだけ高い場所だったのではないかと思うんですね。
この場所の周囲は川が集中していて、付近の村は「輪中」になっている。
鷺山から南には正木川(旧長良川)、北には鳥羽川、これらの川は西に流れて伊自良川に合流していきます。
しかも、長良川は何度も大洪水を起こしては流れを変えていて、1939年の大改修で正木川と切り離されるまでは何度も水害を出していたでしょう。
そういう環境で、政務を行う場所を度々水没させるわけにはいかないので、ちょっとでも高い土地に館を作ろうというのは当然の考えだったと思います。
ちなみに、現在、長良公園になっている場所にも、かつて「枝広館」という守護の在所がありましたが、洪水で流されています。そんなこともあるので、やはりある程度高い土地に館を築くのは当然の備えだったのではないだろうか?
最近は、そんな事を考えながら、自宅の近所をウロウロしています。
いま、当たり前のように住んでるこの場所は、先人が暮らして作ってきた場所なのだよなあ。などと、感慨に浸る今日このごろです。
ではまた。