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東京証券取引所に向かう途中、適時開示資料を紛失したいと願った話

夏のお盆を過ぎたころ、空に白い入道雲がわきたつのを見ると、10年前の2月にあるいた東京証券取引所の道のりを思い出す。

その日、会社から東証に向かうまでに見えた北の空には、冬に似つかわしくない、天空の城でも隠していそうな巨大な入道雲がわきたっていた。

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その日、ぼくはベージュのコートをはおり、スーツの胸ポケットに東証の入館カードをもって会社を出た。入館カードは上場会社に2枚ずつ配られる。いつもは総務部が金庫に保管しており、東証に行くときに借りる。

手には会社ロゴがプリントされた手さげ袋。中身は「代表取締役の異動に関するお知らせ」という適時開示資料に、新社長のバストアップのL版写真と、おなじく新社長の略歴(生年月日、出身大学、入社から現在にいたる部長職以上の職歴)の資料を1つのセットにして、合計で60セット。

午前中の取締役会で代表取締役の異動が決議された。その当時の社長は4月1日以降はヒラの取締役になり、副社長が代表権をもつ会長に、常務が代表取締役社長にそれぞれ昇格することになった。

そして広報担当であるぼくは、このだいじなだいじな適時開示資料を、どうにか紛失できないかと考えあぐねていた。帰責事由もなく、不可抗力で、バレることなく。

会社から東証までは徒歩で約15分。八重洲通りをわたる。以前にグループ会社の庶務・管財を担当する関係会社の部長さんの慰労会でおとずれた鶏料理屋があった。通過する。通過しながら「とはいえ、もう適時開示の手続きは完了してもうてるけどな」などとひとりごちる。

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取締役会で代表取締役の交代が決議されて、事務局として会議に出席している先輩からぼくに内線電話で一報がはいる。

それを合図に、ぼくは東証のシステムであるTDnet(適時開示情報サービス)で適時開示資料と新社長の写真データを登録する。その後、東証の担当者から確認の電話がかかってくる。正式に受理される。

並行して「日経リサーチ」にメールする。日本経済新聞の会社人事の紙面を担当している会社。人事情報の受付用のメールアドレス宛てに、TDnetと同じように資料と新社長の写真データを添付して送信する。

これで適時開示と、新社長就任の新聞掲載の手続きはすんだ。東証に開示資料を持参するのは「投げ込み」とよばれる行為だ。これ、じつは東証に対してではなく、東証内にある「兜クラブ」という記者クラブへわざわざ資料を印刷しておとどけするサービスである。

前任の広報担当の先輩とよくこんな話をしていた。

先輩「兜クラブ向けにプリンター開発しようぜ。TDnetに登録された情報が開示時刻になったら、ご指定の部数が印刷される仕様のプリンターを」
ぼく「兜クラブ以外のどこにニーズあるんすか、それ」

いや、ほんとにあの投げ込みと呼ばれる風習はなんなのだろう。コロナ禍の時期には自粛されてたのに、2024年現在でもちゃっかり残っているらしい。(ちきりん氏も驚愕しておられる)

とはいえ、コーポレート部門の人間にとって外出する機会はすくなく貴重なので、東証の兜クラブに投げ込みにいく時間は、適度な運動にもなる安寧なひとときだった。

兜クラブへの資料投函後に備えつけのマイクで「〇〇株式会社です。△△の資料を投函させていただきました。よろしくお願いします」とアナウンスするのも地味に楽しかった。社内では"マイクパフォーマンス"と呼んでいた。

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「突如、おれは暴漢に襲撃されて、資料をすべて強奪されないかしら」

と道すがらに願ったが、BtoBビジネス主体で、そない知名度もない会社のロゴがプリントされた手さげ袋を強奪する奇特なヤツなんているはずもない。日本橋兜町界隈にはなおさら、いようはずもない。

開示時刻まで余裕がある。坂本町公園でタバコを吸う。当時、学生のころの名残りでまだタバコを吸っていた。ムッシュかまやつの歌に出てくる「ゴロワーズ」を吸っていた。フランスの銘柄。谷川俊太郎の文庫版詩集の表紙。

「親の離婚届を役所に提出しにいく子どもがいるとしたら、こんな気持ちなんやろうか」

とか考えた。どんな親で、どんな子どもだ。精神的ネグレクトが過ぎる。

適時開示資料である社長交代のプレスリリース。異動の理由には「新たな経営体制の下、経営基盤の充実と強化を図り、当社グループの更なる発展を目指すものであります。」とある。

発展を目指すものであります!

ことの全容は知るよしもないが、要するにNo.1である社長とNo.2である副社長の「性格の不一致」だったのだろう。音楽性のちがいによるバンド解散みたいな。そして政治力でまさる副社長が勝った。けっこう早めに。2ラウンド早々くらいで勝負あった。

どちらにもたいへんお世話になった。

ぼくは二人の雑用係だったので、社長がどこぞの行列ができる有名店にランチに行きたいと仰れば11時から並んだし、副社長のパソコンの調子が悪ければ専属のサポートデスクとなってメンテナンスをした。

社長の「たまった小銭をキレイな500円玉と両替したい」という変なニーズを叶えるために500円玉を袖づくえにストックしていた。副社長が定時前の17時くらいに部署のシマに寄ってきて「お前、酒飲みたそうな顔してるな」と言われれば、食い気味で「ハイッ!」と返事して酒とツマミを買い出しに出かけた。ほんとうに当時、ぼくはまともな仕事が無かったのだ。

いっそファミリーマート日本橋兜町の店内のごみ箱に投げ込んでやろうか。でも、新社長の写真がクリップで止められた資料60セット捨てられていたら、さすがに問題になりそうだ。却下。

(去年までは、副社長も『おれと社長は仲がいい』とか『けっきょく行きつく結論は同じや』とか言うてたやん。こんな結末になるとはなァ)

ブルドックソースの本社ビルを過ぎ、永代通りで信号待ちをしながら、ぼくはやれやれと考えた。おたがいに排斥し合う偉いひとたちの心労に思いを馳せた。

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しかし、なぜ排斥し合わなければならなかったのだろう。

永代通りの信号をわたって、光世証券の本社ビルのわき道をあるく。突きあたりに東京証券取引所の南玄関がある。東証の入館カードを守衛さんに見せて、ビジターのバッチを受け取りながら考えた。

10年経っても、ときどき考える。

ぼくにとって、ふたりは新卒採用の最終面接で拾ってもらった恩人だった。どう転んでも仕事ができそうにない、猫背で冴えない不健康そうな青年を採用してくださった。

社長は背が高く、手足が長く、ダンディな人だった。90年代、会社を飛躍的に成長させる製品を取り扱い、その功績と人格的な面も評価されて社長になられた。

合理的な面もありながら、経営方針としては社員の一体感や連帯を重んじた。利益に固執するよりも、社員の満足度や帰属意識、流行のビジネスへの投資など、会社の体裁を気にされていた。結果として採算が合わない事業や新規プロジェクトなどもあった。

(社長の指示で100万円もする市場調査レポートを購入したことがある。それが副社長にバレて「お前、クビにするぞ」と重い口調ですごまれた。誰よりにクビにする権限があるひとが、はっきり言わないでほしい、と思った)

「道楽やで! あんなもん!」


直接は言わないけれど副社長が社長の施策を評して「道楽」と言っていた。財務畑出身で数字に強く、経済合理性の権化のような副社長からすれば、事業計画や採算の見通し、ゆるいコスト意識が苦々しかったのか。じょじょにふたりは疎遠になっていった。

たとえば、それまでずっと昼食をいっしょにとっていたのに、さいごの年は副社長が避けるようになった。だからって11時20分に誘いにこないでほしい。オフィスに戻っても11時50分ってどういうことよ。ほかの社員から白い目で見られていましたよ。

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現在では兜クラブは東証の地下1階にあるが、10年前の当時は2階にあった。エレベーターで待つ。2階で降りると、おなじみの見学施設「東証Arrows」。円筒形の設備の上部に株価が表示される。ぐるぅんぐるぅんと、デカいフラフープが旋回しているようだ。

15:00。適時開示の時刻がすぎる。会社のホームページにプレスリリースが載ったことを確認する。

投げ込みに先立って、兜クラブ内にあるホワイトボードに会社名を書く。そのホワイトボードには1社ずつに対応する番号が振られており、上から詰めるかたちで自社名を書いていく。

そして、ホワイトボード上の自社のとなりにあった番号を、適時開示資料に1部だけ赤鉛筆で書きこむ。それを受付のイントレーに入れる。兜クラブの資料投函BOXで投げ込みを始める。

いつもは気楽な投げ込みとマイクパフォーマンスが億劫だった。

日本経済新聞……時事通信……共同通信……読売新聞……毎日新聞……日経ラジオ……NHK……西日本新聞社……ロイター通信……ブルームバーグ……日本農業新聞……日刊工業新聞……

浦沢直樹のマンガ『20世紀少年』で、謎のウイルスを散布して世界を滅亡させたガスマスクの工作員がいた。自分がしている投げ込みとマイクパフォーマンスは、会社に対して謎のウイルスを散布するスイッチを押すようなものだった、と後年に思った。

(いいバランスだったんやけどなァ)

プロパーで人望もあり、ダンディでロマンチストな面もある社長と、経済合理性を追求して自身の哲学を持った副社長。どちらも胆力があり、繊細さをあわせ持つ人格者だった。ぼくのような一兵卒にもやさしかった。

朝日新聞……産経新聞……中日・東京新聞……ニッポン放送……テレビ東京……東京MXテレビ……日本金融通信……北海道新聞……中部経済新聞……フジテレビ……日本テレビTBS……

社長と副社長は、すこしだけ、利益目標の達成への意識や従業員のしあわせやブランディングなど、気にする部分がちがっていた。

企業の成長速度や新規投資に対する寛容さ、対外的な情報発信に関する捉え方もことなっていた。だからこそ良かった。絶妙なバランスだったのだ。

(対話だ。対話が足りなかった。腹を割って話をすればよかったのに)


資料を投げ入れながら、そう思った。「話し合えばわかる」なんて稚拙で穏当な意見かもしれないが、兜クラブのなかで、そう思ったのを覚えている。

資料投函BOXへの投げ込みを完了する。兜クラブ内に備えつけのマイクをオンにする。

「……株式会社です。代表取締役の異動に関する資料、を投函させていただきました。ご確認よろしくお願いします」

アナウンスを終えてマイクをオフにする。ビジネスパーソンのはしくれなので、任務はまっとうする。あたりまえのことだ。

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難しいことだと思う。頂点にのぼりつめるような人たちの激烈さは尋常ではない。唯我独尊、意志を押しとおす豪胆さ。じぶんの信念を疑わない。しかし、だからこそ、ときにバランスを欠いてしまう。

取締役会に多様性が求められるのは何もジェンダーや国籍ばかりではない。シンプルにトップの性格や価値観が会社として従業員に与えられるサポートに色濃く反映する。

会社は社会的関係のもっともたるものだ。社会的な関係のなかでやり取りされる支援には、大きく次の4つがある。ソーシャルサポートという。

  • 情緒的サポート:共感や愛情の提供

  • 道具的サポート:形のある物やサービスの提供

  • 情報的サポート:問題の解決に必要なアドバイスや情報の提供

  • 評価的サポート:肯定的な評価の提供

どのサポートを手厚くするかは、それこそ経営方針や企業文化でもある。サポートとは裏返せばコストにあたる。キャッシュ的なコストもあれば、コミュニケーションコスト、時間的なコストの場合もある。

不要なコストを削ぎ落すことで会社は筋肉質になる。ただ、気をつけないといけないのは、サポートの総量が極端に不足したとき、会社は栄養失調のような症状を起こすということだ。

舌が渇いて目がくぼむ。あばら骨が出る。肌が乾燥する。髪に色つやがなくなる。めまいを起こす。視界にチカチカと銀紙がまたたく。足がもつれる。しだいに動けなくなる。精気をうしなう。

その後、会社は5年間のあいだに経常利益を倍増させるなど飛躍的な成長を遂げた。費用対効果がはっきりしない投資の削減、ビジネスに大きな支障が出ない認証資格の返上、情報開示にかかるコストを極力減らした。短期的に見れば、素晴らしい業績の推移をえがいた。

ただ、会社が巨神兵とかエヴァンゲリオンみたいに、デカい巨人のような有機体だとすれば、その巨人の骨がきしむ音、水や栄養を求めてうめく声が聞こえてくる気がした。

***

労働者とは風船のようなものだと思う。

過重な負荷をかけられ、こころの柔軟さをうしなったときの反応は2つだ。退職というかたちで空気を抜きながら彼方に飛んでいくか、もしくはフィジカルやメンタルの疾患というかたちで破裂するか。

ある時期から、会社の将来を支える主力の社員が毎月、コンスタントなペースに辞めるようになった。社内でも指折りの重要顧客を担当する営業マネージャーが退職するという情報が社内を駆けめぐったとき、

「なんで、ひとが辞めるんだろうな」

と、かつて副社長で、会長になったそのひとがつぶやいた。その声は、ぼくに返答を求めているようでも、そうでもないようにも聞こえた。めずらしくとまどいを吐露したようでもあった。ぼくはとっさに反応ができなかった。

あの適時開示の日、東証からの帰りぎわに北の空を見あげた。行きと変わらず巨大な入道雲がわきたっていて、「この景色をたぶん忘れないやろうな」と予感めいたことを感じた。

会長となったひとがつぶやいた瞬間、たしかにぼくの目には二重写しで入道雲が見えた。

***

その後の経営判断で、極度に不足したサポートは手厚くなり、栄養失調ぎみな巨人に点滴がおこなわれ、血をかよわせるためにいくつかの施策が取られた。時間がかかったが、しだいに会社は健康を取り戻していった。

夏が来て、入道雲がわきたつのを見るたびに、ぼくはこの一連の話を思い出している。


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