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ジョーの戦記~日本タイトルに挑む、若きボクサー徳島尚を追ったノンフィクション短編

「ジョーの戦記」は、80年代後半のグリーンツダジムを追った、後藤正治氏の89年に発表した連続ノンフィクション「遠いリング」に収められている一編である。

”ボクシングに賭けた少年たちの光と闇、夢を見ることだけが少年たちを支えた。たとえ敗者になろうと、燃焼しつくすまでリングに上がろうとする少年たちを見守り続けた後藤氏による会心の書下ろしノンフィクション” との裏表紙の紹介文の通り、ボクサーの青春の光と闇が描かれている傑作である。

ここで「遠いリング」に収められた七編の中でも「ジョーの戦記」を選んで紹介する理由は、分かる人は分かるだろう。また、読み進めるうちに分かると思う。さて「ジョーの戦記」で言うところ「ジョー」は、辰吉丈一郎の愛称の「ジョー」ではなく、あしたのジョーの矢吹丈に例えられた当時のグリーンツダジムのボクサー、徳島尚のことである。ちなみに矢吹丈は少年院でボクシングを始めたが、徳島はそんなエピソードはない。

ただ15歳で東京を飛び出し、ボクサーになるために幼少期に住んだ大阪に単身でやってきたり、また、ジムの寮の狭い部屋にボクシング以外には何も興味ももたず、ボクシングが全ての生活をしているところが、”ジョー” と後藤氏が徳島を例えた理由だろうか。

後藤氏の当初の目当ては当時は希少価値があったプロボクシングの世界王者の井岡弘樹、そして井岡を教えていた名トレーナー、エディ・タウンゼントトレーナーだった。ジムに通ううちに他のボクサーのことも書くようになり、結果として、グリーンツダジムの八人のボクサーを取り上げて、七章からなる「遠いリング」をまとめた。徳島は井岡の弟分的な存在で、よく目についていたのか、井岡を扱った第一編に続く、第二編がジョーの戦記で、徳島が主人公である。この短編で語られるには、徳島は大阪出身らしい気のいい若者であり、当時20歳で、日本チャンピオンを当面の目標とし、井岡の世界戦のアンダーカードで試合をしていた日本ランカーである。

毎日のジムワーク、ロードワークを積み重ねながら、時には自動販売機でひと口サイズのミニビールを買ってしまう姿は、ストイックすぎるボクサーたちのエピソードを読む中でも、親近感が湧くような気がしないでもない。

徳島は幼少期、テレビで「あしたのジョー」がやっていると、いつもテレビの前に座り込んでいたという。中学一年になると両親が離婚し、母は大阪に残り、子供たちは父と共に東京に移り住む。

高校受験に失敗すると、以前からやってみようと思っていたボクシングを始める。早く家を出たい彼は、川崎に合宿所付きのジムを見つけるが、ジムに斡旋された、回転すし屋の仕事が忙しく、ろくに練習の時間が取れないため、早々に見切りをつけ、三か月後には大阪に移った。

ボクシングマガジンに「合宿所完備」と書かれた広告に惹かれて当時天下茶屋にあったグリーンツダの門をくぐる。「素人の域を出ないが速射砲のように手が出る」ところを気に入った津田会長は、徳島を受け入れて、浪速のロッキー、赤井英和の試合前の練習キャンプにも連れていくようになったという。もちろん、エディタウンゼントの指導も受けるようになる。

そんな徳島に88年6月に日本タイトル挑戦のチャンスが舞い込む、日本フライ級チャンピオンのレパード玉熊への挑戦である。玉熊は後にWBA世界フライ級王者となる逸材だが、この時はもちろん徳島にも勝ち目が充分にあるとして、グリーンツダ陣営は大金を叩いて玉熊を大阪のリングに呼んだ。

しかし、アマチュアのキャリアも豊富な玉熊に5ラウンドにKOされる完敗で、日本タイトルを逃した。ここで、陣営はどうしても徳島をチャンピオンにするべく、なんと二階級下のストロー級(現ミニマム級)に体重を落とさせて、チャンピオンのミサイル工藤に挑戦させる。玉熊戦、工藤戦と二連続での日本タイトル挑戦となる。当時は最軽量級であるストロー級の層が薄く、少し無理がきいたのではないだろうか。

50.8キロのフライ級から、3キロ下の47.6キロのストロー級への減量は苦しいものがあるだろうが、徳島は何とかクリアして二度目の日本タイトル戦に挑む。文中の減量の様子は読んでいて苦しくなる。迎え討つミサイル工藤はこの試合まで10勝(3KO)11敗2分と負けを肥やしに這い上がって来た苦労人である。レパード玉熊、ミサイル工藤というように、名字の前にリングネームを付けるのは近年は減っており、いかにも昭和的な雰囲気がある。

88年11月に行われたこの試合で、きびきびしたファイトを魅せて工藤を判定で下し、チャンピオンとなった徳島だが、「ジョーの戦記」の本編はここで終了する。ここまでを読むと、これから20歳の若者の前途洋々の未来が待ち受けているように感じる。一方のミサイル工藤は徳島戦を最後に29歳でグローブを吊るしたようだ。

韓国での世界タイトルマッチに出場した徳島、左は津田会長(Youtubeより)

私が初めて徳島さんを知ったのは、ボクシングマガジンの白黒グラビアで取り上げられていた東洋太平洋タイトルマッチだったように思う。インドネシアのウディンに勝利して、東洋太平洋フライ級チャンピオンに輝いたという記事を読んで、まだ見ぬトップボクサーとして、「徳島尚」を認知した。

そして、元気が出るテレビのボクシング予備校では、プロ入りした飯田覚士を追いかけて、番組の中で飯田対徳島戦を取り上げていたのを思い出す。東洋王者となった徳島が、そのまま防衛はせず、何戦か後に飯田の地元名古屋に乗り込んでのこの試合だったと思う。番組で取り上げた試合シーンは1、2分だっただろうか。ワイルドに左右フックを振るい、前に出る徳島、ボクシングマガジンの活字から想像していたのは、井岡弘樹のようなアウトボクサーだったが、少しイメージが違った。

この飯田戦で徳島は判定負け、飯田は世界チャンピオンへの階段を駆け上がっていく。徳島はトップ戦線からは脱落し、その後何試合か戦い、引退した。その後は、ジム経営をされたり、息子さんがプロボクサーとしてデビューしたりと昔のボクシングファンにも話題を提供してくれたが、2024年9月3日に56歳の若さで亡くなられた。ご冥福をお祈りしたい。「後悔しない人生とは、挑戦し続けた人生である」とは、徳島スポーツボクシングジムのHPのコピーである。

徳島さんの若き日を切り取った「ジョーの戦記」を読み返すと、故人となった徳島さん、津田会長、エディ・タウンゼント各氏それぞれの息使いを感じ、当時の大阪の光景が目の前に浮かぶようでもある。

※徳島さんを悼み、番外編として「ジョーの戦記」について書いてみました。


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