これから
陽が暮れてから、腕を組んでよく銭湯に通った。
銭湯横の駄菓子屋で、小さな子のようにはしゃぎながら、アイスクリームをお互い二つずつ選んで帰る。
一日あったことを延々と話しているだけで、夜が更けていったあの頃。
寄りかかっていたのは、たぶんこちらの方。
毎日が当然すぎて、そんなことにも気付かなかったけど。
正解はいつもあちらにあると思いながら、生きてきてた。
それでは立ち行かなくなってきたのは、いつからだろう。
あちらの人生であるはずが、いつのまにかこちらの思う方向へと舵を勝手に切ってしまっているような。
本当は、思う方向ではなくて、こちらが可能な方向、こちらの楽な方向ってことなんじゃないか。
これでいいのかと立ち止まっている暇がない時もある。
優しい言葉でその場を濁すことが出来るほどは、遠くない関係。
きつい言葉を放ってしまった後の自己嫌悪。
言い返してさえ来なくなり、出てくる言葉は
ありがとう
お世話になります
この虚しさはなんだろう
この悲しさはなんだろう
自ら遠くへ行こうとしているかのように
こちらとの間に大きくて太い線を引く。
この歌を聴きながら、そんなことを思った。
ドラマ「生きるとか死ぬとか父親とか」の主題歌。オープニングで少し流れている。でも、それはたぶんサビの部分。一度フルで聞いてみたいと思った。
ドラマは、未婚の娘と父親の話だから、シチュエーションは色々違うし、重ならない部分も多い。
だけどこの歌は、肺のあたりをぐぅっと締め付けてくる。
結構痛いところを突いてくる。
近すぎると分からないことがある
時が経って初めて気づけること
自分自身も親になって何十年も経つ。だからこそ思うことも、今だからこそ後悔することもある。
日々をやり過ごすことだけで手一杯で、微かな揺れに気付いてやれてなかったんじゃないだろうかと、親になった我が子の姿を見ながら思う。
後悔はしたくないけど、転ばぬ先の杖ばかり持つわけにも、待たせるわけにもいかない。
他人さんには、容易くできることが親子って言うだけで出来なくなってしまうことがある。
近すぎるからこその距離の取り方の難しさ。
平日に連休を取って旅行に行ったことや、梅に桜に藤に蓮、紅葉に牡丹に…まるで花追い人のように出掛けていた頃のことなど。元気なうちになんて、冗談のつもりで言っていた。
寄りかかっていた時期を経て、対等に歩けていた時期は、本当に僅かだったのかもしれない。
どうぞ寄りかかって
と、言わないとダメなんだろうか。
言えるようになるべきなんだろうか。