本嫌いの読書感想文(後編)
(承前)
「赤くない」本を読み始めてしばらくすると、相変わらず本は嫌いなままだったが、国語の成績が徐々に上向いてきた。初めての文章に触れても、何を言っているのかわからなくはない、という感じになってきた。
「本好き」たちの真似をした効果はあったのだ。そして、国語の成績はある程度まで伸び、大学にも無事に合格することができた。
大学に進んでからも、本を読む習慣ができた。しかし、まだ「本好き」にはなれなかった。どこまで読み続ければいいのかも、わからなかった。
「世の中には莫大な量の本が存在し、今も増え続けている。全部読むことは到底できそうもない。じゃあ、いつまで?いつまで読み続ければいい?」
その頃、気付いたことがある。それは、
「世の中には、うまく書かれた本と、うまく書かれていない本がある」
ということだ。これは衝撃だった。
それまで、読んでいる文章が理解できないのは、私の読解力不足、すなわち読み手の責任だと思っていた。
しかし、本当はそうではなくて、これは書き手の責任である、ということに気付いたのだ。うまく読めないのが悪いのではない、うまく書かれていないのが悪いのだ、と。
作家はプロなのだから、皆うまい文章を書くに違いない、と無意識に思っていたところがある。しかし、プロの中でも実力に大きな差があるのは、どんな世界でも当たり前のことだった。アマチュアの中でうまい者がプロになり、プロの中でうまい者が勝つのである。
これに気付いてから、本に対する見方が変わった。うまくない本は無視すればよい、うまい本を探すことだけに注力すればよいのだ、と。
ここから、読書が楽しくなった。
途中で詰まってしまって読み進めるのが難しいような部分は、「ここはうまく書けていないパートなのだ」と割り切って読み飛ばしてもよし。そんな部分ばかりなら、その本は読まなくてもよい。
これにより、世の中に存在する「読むべき本」という莫大な集合は、かなり小さくなった。これからは100冊に1冊、あるいは10000冊に1冊のうまい本を読めばいい。
もう私は、「本嫌い」ではなくなった。しかし、まだ「本好き」とは言えないかもしれない。好きでない本は、いっぱいある。
言うなれば、「うまい本を求める冒険家」といったところだろうか。
私の読書感想文は、そんなうまい本(お宝)を掘り当てたときの、冒険の記録のようなものである。もし後世の冒険家にもそれを味わってもらえるなら、これほど嬉しいことはない。
面白い本は、ある。
そう信じて、読む。