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1949年 自殺者からのメッセージ : 田中英光 ( たなか ひでみつ ) 『さようなら』

田中英光 ( たなか ひでみつ ) 1913年 (大正2年) 1月10日 - 1949年 (昭和24年) 11月3日

太宰治に師事する無頼派、田中英光。

”私の中毒にくらべると、身体がいいせいもあって田中英光は、決して、それほど、ひどい衰弱をしてはいない。彼は一人で、旅行もし、死ぬ日まで東京せましととび歩き、のみ廻っていたほどだ。
 私ときては、歩行まったく困難、最後には喋ることもできなくなった。
 田中英光のように、秋風の身にしむ季節に、東北の鳴子温泉などゝいうところへ、八ツぐらいの子供をつれて、一人ションボリ中毒を治し、原稿を書くべく苦心悪闘していたのでは、病気は益々悪化し、死にたくなるのは当りまえだ。孤独にさせておけば、たいがいの中毒病者は自殺してしまうにきまっている。
 しかし私のように、意志によって中毒をネジふせて退治するというのは、悪どく、俗悪きわまる成金趣味のようなもので、素直に負けて死んでしまった太宰や田中は、弱く、愛すべき人間というべきかも知れない。”

1950(昭和25)坂口安吾『安吾巷談 麻薬・自殺・宗教』より

田中英光 の作品『さようなら』は

グッドバイ」「オォルボァル」「アヂュウ」「アウフビタゼエヘン」「ツァイチェン」「アロハ

からはじまる。
自身の幼少期から第二次大戦中、戦後と、どのように人と出会い、どういった別れをしてきたのか、その時々で自分はどんな人間であったかということを私小説にしている。
アドルム中毒を自称し、同時代の無頼派作家、坂口安吾とも交友があった田中英光は、師事していた太宰治の死の一年後、太宰の墓前で大量の睡眠薬アドルムを飲み自殺を図る。
この『さようなら』という作品は、太宰治を亡くし、田中自身が最終的に一人で死に至るまでの間に書かれたものであり、死について、あるいは生についてを書き綴り、また淡い恋について家族の崩壊についても赤裸々に懺悔のように連ねられている、そして、自殺を否定しつつも自殺意図を感じさせる迷いが、繰り返される相起の表現から仄めかされる、まるで遺書のような記録。

人物、時代背景
坂口安吾の死:1955年〈昭和30年〉2月17日
田中英光の死:1949年〈昭和24年〉11月3日
太宰治の死:1948年〈昭和23年〉6月13日
帝銀事件:1948年 〈昭和23年〉1月26日
織田作之助の死:1947年〈昭和22年〉1月10日
日本の終戦:1945年 昭和20年 8月14日 ごろと云われる →第二次世界大戦終結
芥川龍之介の死:1927年〈昭和2年〉7月24日
有島武郎:1923年〈大正12年〉6月9日
第一次大戦に日本が参戦 1914年 大正3年 8月23日 →終戦 1918年 大正7年 11月11日

資料など

https://archive.md/pxKrr

三鷹市 :【報道発表】太宰治の弟子・田中英光に関する資料の寄贈を受けました

2023年11月13日 発表
佐藤佐に宛てた書簡や『青春の河』の署名入り初版本などが寄贈されました

田中英光(たなか・ひでみつ)は太宰治の弟子の中でも作家として唯一後世に残り、また、太宰の自宅で空襲を体験するなど、三鷹と太宰を語る史実の中でも重要人物と位置付けられています。
このたび、田中の親友で太宰とも親交があり、2人の架け橋となった佐藤佐(さとう・たすく)に宛てた書簡などと、田中が自死する2カ月ほど前に、画家で歌人の島田勇吉の孫・順二氏に献呈した『青春の河』の署名入り初版本の寄贈を受けました。

https://www.city.mitaka.lg.jp/c_press/106/106171.html

きくよむ文学

さようなら』① 〜 ⑥
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