
ヒロポンのはなし 『安吾巷談 ( あんごこうだん ) 麻薬・自殺・宗教』 坂口安吾 ( さかぐちあんご ) 1950年 〈昭和25〉
坂口安吾 ( さかぐちあんご ) 1906年〈明治39年〉10月20日 - 1955年〈昭和30年〉2月17日
『安吾巷談 ( あんごこうだん ) 麻薬・自殺・宗教』
1950 年(昭和 25 )
無頼派と呼ばれる文学者、坂口安吾のヒロポン(覚醒剤)にまつわる世相を
”伊豆の伊東にヒロポン屋というものが存在している。”
からはじまり、ヒロポンを使用する人々、自身の”中毒しない”使用状況と、彼の周辺の同時代の作家について、ヒロポンや酒、睡眠薬をとおして、そのともだちと人生を語るような文章で、自身の心理と状態とが実験の過程の報告のように書かれている。
幾人かの友人の死が語られるが、坂口安吾自身が没するのは、この文章の掲載から 5 年後のようである。
登場する薬物など
ヒロポン ( 大日本製薬 のメタンフェタミン商品 )
ゼドリン ( 武田長兵衛商店 のアンフェタミン商品 )
アドルム ( 睡眠薬 )
カルモチン ( ブロモバレリル尿素 )
ウィスキー ( 酒 )
織田作之助 ( おださくのすけ ), 郡山千冬 ( こおりやまちふゆ), 石川淳 ( いしかわじゅん ), 壇一雄 ( だんかずお ), 渡辺彰 ( わたなべあきら ), 高橋正二 ( たかはししょうじ ), 八木岡英治 ( やぎおかえいじ ), 原田裕 ( はらだゆたか ), 田中英光 ( たなかひでみつ ) とその恋人, 太宰治 ( だざいおさむ ) などの交友人物が登場する。
※この昭和前半時期の薬物についての取扱は現代とはあまりにも乖離した世間常識なので、当時の ”ヒロポン ( メタンフェタミン塩酸塩 )” については、『反スタイルの記』坂口安吾 1947年(昭和22)を参照してください。
”私の中毒にくらべると、身体がいいせいもあって田中英光は、決して、それほど、ひどい衰弱をしてはいない。彼は一人で、旅行もし、死ぬ日まで東京せましととび歩き、のみ廻っていたほどだ。
私ときては、歩行まったく困難、最後には喋ることもできなくなった。
田中英光のように、秋風の身にしむ季節に、東北の鳴子温泉などゝいうところへ、八ツぐらいの子供をつれて、一人ションボリ中毒を治し、原稿を書くべく苦心悪闘していたのでは、病気は益々悪化し、死にたくなるのは当りまえだ。孤独にさせておけば、たいがいの中毒病者は自殺してしまうにきまっている。
しかし私のように、意志によって中毒をネジふせて退治するというのは、悪どく、俗悪きわまる成金趣味のようなもので、素直に負けて死んでしまった太宰や田中は、弱く、愛すべき人間というべきかも知れない。”
きくよむ文学
『安吾巷談 ( あんごこうだん ) 麻薬・自殺・宗教』
「文藝春秋 第二八巻第一号」1950 年(昭和 25 )1 月 1 日発行
▼ 字幕あり
1950 年 時代背景など
坂口安吾の死:1955年〈昭和30年〉2月17日
田中英光の死:1949年〈昭和24年〉11月3日
太宰治の死:1948年〈昭和23年〉6月13日
帝銀事件:1948年〈昭和23年〉1月26日
織田作之助の死:1947年〈昭和22年〉1月10日
日本の終戦:1945年 昭和20年 8月14日 ごろと云われる →第二次世界大戦終結
芥川龍之介の死:1927年〈昭和2年〉7月24日
有島武郎:1923年〈大正12年〉6月9日
第一次大戦に日本が参戦 1914年 大正3年 8月23日 →終戦 1918年 大正7年 11月11日