「たりないくらいがちょうどいい」小林一茶と長男から学んだこと。
われときて あそべやおやの ないすずめ
雨がしとしと降りはじめ、薄暗がりが部屋一面に広がる初夏の昼下がりに、3歳の長男がポツリと呟いた。どうやら最近、幼稚園で習ってきた俳句のようだ。
(ん?誰の俳句だったかな?)
洗濯物を畳みながらぼんやりと考える。
………ダメだ、ぜんっぜんっわからない。
数年前、社会科の教師をしていたはずなのに、ピンとこないポンコツな自分に落ち込みつつ、これは誰の俳句なのかと長男に聞いてみた。
「しらない」
そらそうよな。うーん、そうなれば、残る手はひとつ。
博識で有名なGoogle先生にお願いするしかない。
前にテレビで「現代人はわからないことをすぐググるからいけない!」とかなんとか、なんか偉い人が言っていたような気がする。その時は、なるほどなぁと思ったが、やっぱりこんな時には、すぐに文明の利器を頼ってしまう脆弱な自分がいた。
現代人の悲しき性よ…と申し訳なく思いながらも、ググる手は止まらない。答えはもちろん1発で出てきた。
「我と来て遊べや親のない雀」は、
「おらが春」でも有名な俳人、小林一茶の俳句だった。
(江戸時代に俳句という言葉は主流ではなく俳諧と言われ、俳人ではなく俳諧師だったそう。明治以降、正岡子規によって俳人、俳句という言葉が確立されていくそうだ。どっちみち俳句の源流は俳諧なので、ここではわかりやすく以後も俳人、俳句で統一していきたいと思う)
教科書にも必ず出てくる日本三大俳人の1人、小林一茶。
ご存知の方が多いと思うのだが、先ほどの句の内容を説明すると、3歳で母親を亡くし、15歳で奉公に出たという一茶が、親鳥とはぐれてしまったのであろう雀の子をみつけて、寂しかった自分の幼少期と重ね合わせて詠んだ一句だそうだ。
深い寂しさのなかに、不思議な暖かさがあり、生きていくことの力強さや安らぎを感じられる句だなと、ド素人ながらに思った。
こんな趣深い句をチョイスしてくるなんて…長男よ…
君はどんなセンスしてんだ思ったと同時に、意味が全て伝わらなくても3歳児を引き込んでしまうような魅力のある句を詠んだ小林一茶の偉大さに感銘を受けた。
小林一茶といえば、我々の住んでいる四国中央市の土居町にある暁雨館にも訪れて一句詠まれている。
暁雨館の記事を書いた際に、彼のことについても少し調べたのだが、波瀾万丈という言葉だけでは足りないような人生を歩んだ人物で大変興味深かった。
幸が薄いなんていうとバチが当たるかもしれないが
彼の人生は本当に涙が出るほど山あり谷あり…
いや、そんな生ぬるいものじゃなく山からの谷あり谷あり山あり谷谷谷…小さい山という有様だ。
フルスロットルなハードモード人生を生きた人物ランキングのなかでも上位を争うのではないかと考える偉人のうちの1人である。そんな不名誉なランキング絶対いやだが…。
ここで改めて、小林一茶の人生を振り返ってみた。
長野県の北部、信濃の農家に長男として生まれた。農家といっても結構裕福なお家だったようで、一見すると、江戸時代人生の勝ち組である。
しかしその後、3歳で実母を亡くし、継母にはあまり大切にされず、折り合いも悪く、跡取り長男だというのに、15歳の時に奉公にだされ転々とした。
そうこうしてるうちに、20歳で俳句と出会い修行をし、俳人となる。俳人になった一茶は、全国各地を巡りながら腕を磨いていった(この時、暁雨館を訪れている)
しかし、一茶が39歳の時、唯一の肉親だった父親が亡くなる。父の遺言では遺産は兄弟で半分こと言われていたにも関わらず、継母と弟が納得せず、父の遺産を巡って泥沼バトルが勃発した。
のちに弟と和解できたようだが、10年以上もかかったそうな…。
52歳とかなり晩婚にはなるが、28歳の妻と結婚し、4人の子宝にも恵まれる。この頃には、幸せそうな子供を思う句も残っていた。しかし、子どもたちは、みんな2歳になる前には亡くなってしまい、妻も程なくして亡くなってしまう。
2度目の結婚も、すぐ離婚とうまくいかず…。
3度目の結婚をするが、遺産相続で苦労して勝ち取った家が大火事に巻き込まれてしまいすべてを焼失した。
不幸中の幸いとでもいうのか、みんなの命が助かったことと、一茶の死後に産まれた3度目の妻との子どもは無事に大きくなったそうだ。そして、一茶と妻と継母と弟は、焼け残った土蔵で一緒に暮らし、65歳の時に一茶はこの土蔵で亡くなった。
ザックリとだが、初めてこの人生を目の当たりにした時は、立ちくらみがしそうなほどの衝撃をうけたのを覚えている。
一茶、あなたって幸せだったの…??
人生で経験したくないことが次から次へとグルグルおきまくっとるがなとげっそりした。(余談にはなるが、一茶の七番日記なるものを読んだ。これはこれで、一茶について、知りたくなかったような、知りたかったような一面を知ることができた。一茶の赤裸々な夫婦性活などなど……いち女としては……オイ!一茶!オイ!コラ!ってなるけれど、一茶の男としての苦しみもまたわかる気もする…人間って本当に難しい。)
しかし、そんな一茶の人生について、私の見方が少し変わる出来事が最近あった。
「だが、情熱はある」という南海キャンディーズ山ちゃんとオードリー若林の半生を描いたドラマ見たことがきっかけである。
2人ともなにか「たりない」というコンプレックスを抱えていて、時に悩み、時に嫌悪しながら成長していく。
最終的には、そんなコンプレックスもひっくるめて受け入れ、もがきながら、今を一生懸命に生きる姿にとても共感し感動した。
そして最終回まで見た後、ふとある事に気付いた。
小林一茶の人生もまさにこの「たりない」ことづくしだったのではないだろうかと。
一応実家も太く、ある程度のお金はあるにも関わらず(失礼だが、私ならすぐ腐って適当に生きていたかもしれないような人生を)一茶は「何者か」になるために常にもがいていた。
みっともなくても、不幸でも、すべて清濁合わせのみ、受け入れて、全力で生きる道を選んだからこそ、他の人では見逃してしまうような、小さな命、弱いものたちの想いに気付くことができ、自分の事のように捉えて詠む力を持つことができたのかもしれない。
人生において「たりない」そんな部分が一茶の世界観を形成し、誰にも真似できない作風へと変化させた。それは時代を超えて、正岡子規をはじめ、多くの人々の心の支えとなり、長く愛されることに繋がっていったのだろうと思う。
彼が人生で流してきた血と汗と涙、そのすべてが俳句という世界で1番短い文学に集約されている。そして、このスピリットは令和の時代に生きている長男の琴線までも見事に掻き鳴らしくてれた。
もちろん、3歳の長男は一茶の名前なんてまだ知らない。この句の意味だってきちんとは理解できていない。それでも「なにか」が伝わっているのだ。
「この句なんで好きなん?」
と聞くと
「わからない。けど、好き」
という不明瞭で、なんともたりない感想が返ってきた。いや感想にすらなってないかもしれない。
しかし、手探りの直感だけで物事を選び取れる子どもだからこそ、一茶の想いや真髄を、親の私よりも深く潜在的な部分で理解しているのではないだろうかと思った。
そこには澄み切った湖のように透明で純粋な感覚しか存在しない。私が考えてしまいがちな深い意味や詳しい意図なんかもっぱらないのだ。一茶と長男は句を通して、まさに感覚だけで、時代や年齢を超えて繋がりあっている。2人にしかわからないし、2人にしか共有できない、それに気付いた時、とても羨ましくなった。きっと私にはわからないからだ。
大人になるにつれて、好きな物も、好きな事も、意味付けをしないと不安で、その答えを無意識に求めてしまっていた自分がいた気がする。
頭で考える前に、心で感じることも忘れてはいけない。長男のように、好きなことに理由なんか無くて、言葉にできなくて、「たりなくて」充分いいのだ。
そして、一茶のように、大火事にあってすべてを失うという史上最凶に絶望的な状況ですら「やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ(焼けた後の土があったかいからノミがとんで喜んどるぞ〜)」なんて悲しみを微塵も感じさせない句をすらりと詠めてしまう強さも見習いたい。まさに「たりない」を愛し、「たりない」に愛される男だ。
暁雨館の記事で注目した時から、いつか文章にしてみたいなと思っていた人物の1人であった小林一茶。
長男が、たまたま口ずさんだ一句から、いろんなことを学んだ気がする今日この頃。
これも、またなにかの縁なのかもしれない。
そうだったらいいな。