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怒り怒られることの某力


現代人はだんだんと変わってきた

怒ることと、怒られないことが

ケンカして相容れない状態にある


怒られないとわからないことがあり

怒ることで、相手自身が自分のほうが

間違っていたことに気づくこともある


怒られないように育った、育てた側は

怒らないでくれたほうが快適である


だが人間はどの年代でも何かしら

怒られても仕方ないことに気づかず

自分を正当化してしまうようになった


他人に怒られることの外形を嫌い

怒るほうの外形を悪だと決めつける


そうすると怒る側は怒ってやることが

本人や家族やチームの為と思うことも

怒ってはならないとためらいがちになる


怒ったり叱ったりしたら相手が

傷つくし、暴力的な言動をすると

その外形だけでハラスメントと言う


人は怒られることを避け過ぎて

お互いに窮屈になってしまった


怒られて気づき、学んで改善して

育って経験を積んだ世代は今度は

同じように怒って相手に気づかせる

やり方ができなくなってしまった


そこで怒られないと成長しない部分の

修正が効かず止まって効果がなくなる


若い世代もどこかで怒られる必要が

あることをわかっていながら

できればストレスになるような

怒られ方はされたくないと願う


こういう怒る側と怒られる側の溝

現代人は解決しようとせずに

放置したまま避けるようになった


中年世代、とりわけ今の40代以上は

ほとんど学生時代や社会人になっても

今ならパワハラ認定されることを

甘んじて受け入れた経験をしてきた


個人差はあるが、ハラスメントが

行き過ぎた場合だけを取り上げると

怒ること怒られることで成長や

修正できたこともあったはずのことが

否定されてできなくなってしまう


ワタクスも、高校生のときに

部活の合宿で学校に泊まって

大会を目標に頑張る時期だったとき


どうしてもダラダラしてしまい

全体がダラけたムードになっていて

その雰囲気を感じ取った顧問の先生は


それまでワタクスに対しては一度も

手をあげなかったが、平手打ちした


見た目でわかるほどの豪腕でもって

ワタクスは殴られて、ハッとしたのだ


そうか、ダレた雰囲気のまま

練習をしていたことに自分自身も

客観的に気づけていなかったのだ


部活のキャプテンの立場にあった

ワタクスは、殴られてこなかったが

殴られてこなかったワタクスを知る

周囲も含めて気持ちの緩みに

自分たち自身で気づいたのだ


雰囲気が一変してムードが変わり

真剣さを出すスイッチがチームの

全体に入った瞬間を忘れていない


こういう経験をしてきた人も

多いだろうし、記憶にあると思うが

今の私たちはどうしたらいいか

わからなくなって、しまいには


怒り怒られる選択肢の可能性を

閉ざしてしまったのではないか


人間は良かれと思ってすること

しないことがあるが、そう感じたら

しないことが正解になりそうでも

あえてすべきことが、結果的に

正解になることも多く潜んでいる

このことに気づいているはずである


各自の責任に逃げて避けてきたことが

社会のヒズミやユガミを大きくして

どうしようもなく窮屈にしても

私たちは怖がって決断できずに

逃げているのではないだろうか?


怒り怒られることはどんな年齢や

立場になっても重要な意味がある

大事なことなのに、わかっているのに


怒れない怒られない社会は

本当に良い方向に向かうのだろうか


疑問や議論の果ての無い話だが

本当のところ、無視できない話で

私たちは逃げているんだろうなと


矛盾やジレンマを抱えながら

器用さばかりを求め、すべてをこなし

うまくやることやストレスのない

ことばかりを目指そうとしてきたが


どうやら私たちは間違っていた

そう気づいている人も多くいるが

いかんともしがたい感情や態度で

濁して逃げている自覚もある


もうどうしたらいいかわからず

惰性で濁してきたことのツケが

いま突き付けられているのだろう


暴力の肯定はしないが、この某力の

工程を無視してきた選択は

やはり間違っていたような気がする


幅広く議論しつつ各自が自分自身で

意見を持つことも大切だろうなと思う




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