【小説】消えゆくエトセトラにグッド・バイ - 炉紀谷 游【喪失】
- 序 -
私が書けるのは自己反省のメタファー。独りよがりな文章です。
メタフォリカルな世界に隠された真理は、今もなお比喩に埋もれたまま、表に出る気配がありません。
されど、これを手にとるあなたが救われることを祈っています。
あなたが私と同じなら。きっと、人のことが好きだから。
- 本篇 -
そういうわけで、チャーキーと呼ばれる青年は、青を両脇に抱え水面に揺蕩っていた。
しばらくのバカンスを彼は、どういうわけかひどく憂いていた。故に、海の波は、彼にとってなんとも心地の良い刺激であった。
しかし、空の青はそう長くは続かないようだった。日はそろそろ沈むところだった。
彼は、偉大な生命の波を脱して、自分が確たる存在であることを認めたくなかった。そうするには、まだ現実が痛々しかったからだ。
だが、海上徘徊の時間はとっくに過ぎている。このままでは海に飲まれてしまいそうだった。
チャーキーは、じっくりと砂浜に向かった。全身がどんよりとしているなかで、彼はかろうじて波に負けない程度の力を発揮した。
うねる波を感じているうちに、チャーキーはどうにもおもしろくなった。いわばそれは、拍動だった。生きる。それそのものだったのだ。
だからチャーキーは励まされて、先ほどまで憂鬱でアンニュイな面持ちから脱却して、積極的に陸に上がろうとした。
それが功を奏した。陸に上がった途端に感じる強い沈黙を彼はかき消した。心は叫び、相当に晴れやかな感じがした。
彼は滴るそれらを軽く払って、服を着替えた。
日はもう沈みかかっていた。太陽の光も熱線も、もう消えかけの火のようにさみしい感じがした。
しかしチャーキーには目指すべきところがあった。海辺に開かれたそこにいけば、幾分かましになる気がしたのだ。
いや、正確にはこの気分を保ち続けることができるような気がしたのだ。そうでなければ、来たる暗がりの夜に胸を締め付けられるだろう。
チャーキーはいい男だったが、同時にとても多くのことを恐れていた。故に、仕方がないことだったのだ。
「お好きなところにどうぞ」店主はそう言って、酒場にチャーキーを迎えた。
店主は、相手が新しい客だとしても、本人の求めるものはその口から明かされるまで聞かないことにしていた。だからチャーキーが黙ってテラスに向かっても、何も言わなかった。
店主はこう見た。おそらく彼は暗くなりゆく海を眺めながら、自分が何を飲みたいかを考えたいのだろう、と。それは、大体は正しかった。しかしチャーキーは、もう少し複雑なそれに頭を悩ませていた。
テラスは、ぼんやりとした電灯で照らされ、客はぽつりぽつりとたち現れた。
日は沈み、暗がりの世界が広がっている。海らしきそれは音を広げるばかりで、正体は分からなかった。もしかしたら、波の音をまとった化け物がいるかもしれない。暗がりのなかでは、如何にしても答えになりうるのだ。
チャーキーはそれ以上闇に飲まれることを良しとしなかった。代わりにどっかりと席に座って、さて自分がどうするべきかを考えるべきだと思った。
しかしチャーキーは、一人で物思いにふけるのも気分ではなかった。誰かに話してほしい、それも酔いの混じるようなお話を。
「隣に座っても?」
「あー、構いませんよ。私が、気にならないならね」少し年のいった老人は、おそらくこの国に来てまだ日が浅いのだろう。そう思わせる言葉の響きだった。
「僕はチャーキー。あなたは?」
「おー。チャーキー。よろしく。私はエリオット。旅をしにきています」
「なるほど、エリオット。旅というのは?」
「思い出の旅。褪せた思い出に、改めて色を塗りに。ここには若い頃、来たことがあるのです。今は亡き妻とともにね」
「そうだったのか。それは、良い旅になるといいけれど」
「ところで、チャーキー。一杯やりましょう。といっても、酒ではありませんよ。私も、それにあなたも、酔いに身を任せて忘れたいわけではないでしょう」
「おや、ここは酒場だけれど。しかし、どうもエリオットの言うことには一理ありそうだ」
「こういうときは、コーヒーをおすすめします。ああでも、デカフェをね。夜は、覚醒し続けてもいいことがありません。残念ながら」
「おもしろい」
チャーキーは、テラスから店の中に戻って、一杯頼んだ。
店主はこう思った。ああ、あの老いぼれじいさんは人をよく引き付ける。この数日、酒が大して売れやしない、と。
「さあ、どうぞ。冷めないうちに」
「ありがとう」
テラスに戻るとき、チャーキーは机に向かい合う男と女を視界に入れた。
一方テラスの席は、少しおだやかな風に吹かれて、より一層ぼんやりとした空気に包まれていた。
「エリオットは、ほかにどんな思い出があるんだ?」
「あう、そうですね。この街にはたくさん。美しい女神の石像や、よくできた噴水。広場でささやかに笑いあったこと。その場所も、その会話も。思い出です。かけがえのないもの」
「それは、奥さんとの思い出か」
「最愛の妻。亡くしてから随分経ってもやはり忘れることはできないものですね。そして、追いかけてしまう。チャーキー。この前は、遠くの国に二人で出かけた記憶を掘り起こしてしまいました。桜は知っていますか。あれは、随分と綺麗ですが、切ない。私と一緒です」
「桜は見たことがある。だが、僕には桜とエリオットが同じには思えない。なかなか難しいことを言うな」
「ごめんなさい、言葉が正しくないかもしれない」
エリオットは顔を苦くして笑っていた。実のところ、自分のよく知る言葉で同じことを語ろうとした時、なんと言えばいいのか、分からなかったのだ。
「ようは、過去を振り返るな、ってことか」
「そういうようなものです。しかし、同時に無理な話です。私のような人間には」
チャーキーはエリオットのたどたどしい言葉を聞いて驚かされた。ことは差し迫っていたからだ。
「老年ともなれば、そう思い煩うことは少なくなりました。結論を出すのに十分すぎる時間が与えられたからです。でも、それらの結論に至るまで、私はひどく悩む性質なのです」
「とてもそうは見えないけれども。僕にとってしてみれば、エリオットは随分余裕がありそうな、真っ当な人って印象がある」
「そう見せている。あるいは、私が私を操っているからでしょう」
ふと、からくり人形がいる。チャーキーはそう思った。同時に、自分のなかに目覚めるものがあった。
以前から、踏み入れるには辛い道をチャーキーは歩んでいた。それに自覚的になってしまったらもう戻れないと気づいていた。
エリオットはチャーキーのそれが、つまり、そういった性質が、自分と似ていると感じていた。引きずり込むつもりはなかったのだけれど、エリオットはよい言葉を紡ぐのにふさわしい語彙を持ち合わせていなかった。
「お人形さんみたいだ」
「そう、私はマスター。人形使い。自分という名の。皮肉っぽい生き方。やめたほうがいい。でも、気づいてしまったら、戻ることも進むこともできない。永久に独りの監獄行きです」
「生きづらそうだ」
「これを、ずっとやってきました。人形を通して生きていく。そうすればちょうどいい世界でした。しかし、今はなんともいえません」
マグカップは熱を帯びている。チャーキーは視線を下ろし、わずかに感じる熱に意識を向けていた。
「私の国は、仲間割れした。若いころ、戦いました。人が倒れる。死ぬ。そんな様を見て、私は人形使いになった。事実は痛々しい。人形を通して受け止めるのがちょうどいい」
「ああ、そうなのか。それは、さぞ大変だっただろう」
「チャーキーも同じみたい。美しい夢を持つ若者。でも、辛そう。そんな顔、しています。でなければ、私に声をかけはしない」
チャーキーは言葉を失った。黙してエリオットはチャーキーの心を明るみに出した。いや、もしかしたら最初からチャーキーは自分の胸の内をさらけだしていたのかもしれない。
「私も、夢があった。美しい街に生き続ける。でも無駄だった。戦いも、改革も。現実は重々しい。皆。心を閉ざしてしまった。私も。美しい過去にすがった。それで、ここまで生きてきたのです」
「希望を持ち続けたんだな」
「分かりません。希望の先に何があるかも想像がつかなかった。だから、希望を持っていたかは覚えていない。でも、妻は、私を豊かにしてくれた。夢に悲観する私に、生き方を見せてくれた」
「奥さんがいてよかったな」
「チャーキー。あなたの国はいいところです。争いはまだない。でも、いつか来る。誰かとぶつかるだけじゃない。いろんな争い。大切な人と出会うことが、何よりも大事です」
「確かに。世の中どうなるかわからないからな」
「でも生き急がない。未来はみてもそれほどいいことがない。それは、その時にわかるはずです」
「確かに。焦ってもいいことないな」
この老人は、随分と詩的なことを言う。そうチャーキーは思っていた。一方で、その言葉の重さを感じる自分もいた。
「あなたを見ていると、言葉が自由に出てきた。でもごめんなさい。チャーキー、あなたの話を聞いていなかったですね」
「いや、今日は話を聞きたかった気分だったからいい。エリオットの話で、前向きに生きていたいと思った」
「全部、些細なこと。そうわかっているから苦しい。こんな年寄りにはならないでください」
「立派な生き方だよ、エリオット。じゃあ、おやすみ」
「ああ、もう行ってしまうの。なら、おやすみ。いい夢を」
チャーキーは困惑していた。この酒場にくるまで、自分はどうも感傷的だったのに、テラスの老人の話を聞いていると無性にむかついてしょうがなかったのだ。
それがなぜかは分からなかったけれど、どうも僕らは似たような生き方をしていたらしい。だから、似た者を嫌悪しているだけなのだと思った。
酒場を抜けて、初めて店名の刻まれた看板を読んだ。それは「不器用なおれたち」という文言だった。
夜は明けることを知らなかった。そして、チャーキーの思いはますます込み入ってくる一方だった。
チャーキーは家に帰らなければならなかった。列車に乗ってしばらく時間がかかるのだ。
それが、チャーキーにとっては苦痛で仕方なかった。チャーキーは、自分の将来に光がなかったのだ。家の周りは薄汚れた路地。希望の色を持たない人々ばかりが集まっている。自分に与えられた限りある才覚をもってしても、自分の幸せは、どうもそんな現状では、遠く先にあるように思われた。それが、チャーキーにとっては辛くてしょうがなかったのだ。
女神様がいるのだと。己を不幸にするのに注力する女神が、自身の一切を暗闇に落としているのだと。そう思いたくて、思っているだけなのだ。
もしかしたら、あれも関わっているのかもしれない。若いときのそれなど、激情のほかになんでもないと分かっていて、それでも、この不安定な若さを生きるのにはとても重要なのかもしれない。少なくとも、不器用だと自覚しているような奴らには。
思い出を振り返る。かつて、遠い街に咲いていた桜を思い出す。本来は異国のものだと聞いていたが、いつぞやの記念にその土地から我が国にやってきたらしかった。共に出かけたときに見た桜は、異国情緒あふれる色彩で、確かにそれが美しいものだと実感した。しかし振り返ると、あれはものすごく不吉なものだった。今思いだすと、恐ろしくてたまらなかった。それがなぜかは分からなかった。
だが、それもどうでもいい。桜が運ぶ繊細な物語は、おそらく灰色の煙をもくもくと放つ列車によってかき消されてしまう。
夜は長い。変わらない暗闇が眼前に広がっていた。おそらくそれは、デカフェではなくコーヒーを頼んだからだろう。
覚醒してもいいことはない。
そうは分かっていても、お別れには時間がかかるのだ。
- 評言 -
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