OODAをじっくり学び・検討するということ~気づく力と自分軸
最近、ビジネスパーソンの間でOODAが賑やかである。今の時代にOODAをじっくり検討することはどれだけの意味があるのだろうか?その思考・行動自体に問題はないだろうか?
OODAはObserve(観察)、Orient(情勢への適応/判断)、Decide(意思決定)、Act(行動)の頭文字を取ったもので、一般的には( )内のように翻訳されていることが多い。
もともとアメリカ空軍が戦闘機パイロットの勝敗の差異を分析し、理論化したものが米軍全体、さらには海外の軍隊、ビジネス界にまで広がっていったとされている。
OODAは実は平成初頭にも日本に紹介されている。
当時はバブル期にあり、バブル崩壊後もその余韻からなかなか抜けられず、やがて後始末に追われ、長期低迷に入った日本。
今、OODAが注目を浴びているのはリアルとサイバーが融合し、国を超え、産業の垣根を超えてこれまで経験したことのない競争が起きていて、しかもその変化が急速であるために対応に苦慮しているからだろう。
変化が激しく先が読めない時代の思考・行動にOODAが役立つのではないか、そんな思惑が窺われる。
OODAを学ぶこと自体は意味があると思うが、そこに時間をかけ過ぎることには違和感がある。
米空軍では「互角のスキル/装備を持ったパイロットで勝敗が分かれるのはなぜか?」が検証され、「最も優秀なパイロットは危険も好機も状況をより迅速に分析、対応する力が優れていた」とされている。
勝者のパイロットは必要なステップ(OODA)を敗者のパイロットより迅速に終えるというのだ。
戦場ではまさに生きるか死ぬかが問われている。一言で言えば、OODAは生き残るために瞬時になされる、動物的な直感的思考・行動と言ってよいのではないか?
OODAの最初のO「Observe」はじっくり時間をかけて行う観察ではないはずだ。
次のO「Orient」は情勢への適応と考えるより、瞬時に情勢を判断、方向付けを行うと受け止めた方が適切ではないか?(判断と方向づけが正しければ結果的に情勢に適応したことになる)
目まぐるしく変化するカオス化した戦場で自らが置かれている状況を瞬時に理解して情勢を判断、自らが向かうべき方向を素早く決めて行動する。
そうしないと生き残れない。動物的な直感的思考・行動が生死を分けると言ってよいだろう。
日本ではOODAのなかでも特に2つのO(ObserveとOrient)が苦手な企業が多いように見える。
堅実で真面目過ぎる日本企業がOODAを確実に、単純に、明確に理解しようとして時間をかけてしまう、その思考・行動自体が変化の激しいVUCA(変動幅が大きく、不確実で、複雑で、曖昧)の時代に合っていないように見えてしまう。
OODAで最も大切なのはスピードだ。
OODA(ウーダ)をウダウダこねくり回して議論している間に外部環境はどんどん変化していく。
大本営がOODAを正確に理解したと思ったときに戦場はどうなっているだろう?
戦場の変化に素早く気づき、素早く情勢を読み、迅速に決定・行動することで変化に遅れないことを願う。
そもそもビジネスでは「変化に対応/適応する」のでは本来ダメだ。「変化を先取りする/変化を自らつくる」ことが自らが生き残る可能性を高くする。
日本が自動車、エレクトロニクスで世界を席巻し、バブルを謳歌している頃、米国は「速度と加速」を理解し、「迅速に対応」できる会社にならなければならないとOODAを取り入れた。
そのとき、米国で取りあげられていたのが日本の企業、日本の現場だった。
日本は今度も米国を経由して時代を経て、昔持っていた自分たちの良さをあたかも「米国発の新しいもの」として学ぼうとしているのではないか?
日本が良さを失ったのは米国のしたたかな戦略、術中にハマったのか?
それとも自ら無意識に無自覚に術中に飛び込んでいったのか?そこに日本のしたたかな戦略はあったのかなかったのか?
日本企業はいつから「自分で変化をつくる」企業から「誰かがつくった変化に対応する/乗っかる」企業になったのだろう。
変化をつくれないのはなぜか?
変化を察知する、変化に気づく力が落ちているからではないのか?
そしてそれはVUCAの時代が、リアルとサイバーが融合し、産業の垣根を超える大きな変化が起きる、そのずっと前から起きていたのではないか?
必要なのは「気づく力」と気づいたときに瞬時にそれを判断・行動に繋げられる「軸:自分軸」をもつことではないだろうか?
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