イライラの奥にあるのは、自分からのSOS
対話会という、思ったことを思ったままつらつらと気持ちを話す場が好きだ。
昔は世界各地の村にエルダー(長老)という存在がおり、週に一回程度その人の元に集まり、最近起こったことや今感じていることをシェアする場があったようだ。
産業革命以降すたれてしまった文化の一つだが、こういう安心安全な場で自由に話をする場がもっと増えてもいいように思っている。
その日も、よくいくなじみのオンライン対話会に参加していた。
私が話す番になったので最近のこと話していると、画面上に眠っている人がいるのを見つけた。正直あまりいい気持ちはしない。というか腹が立つ。
こういうとき私はあるものよりないものに目が行ってしまうタイプだ。一生懸命に私の話を聞いてくれる人より、不真面目な態度を取っている人を見るとそちらの方が気になってしまう。
しかし対話の場というのは何を言ってもいいという心理的安全を守るため、何が起きてもいいというグランドルールがある。だから参加者は寝てても何をしてもいい。
そんなことを考えていたら怒るに怒れず、対話会が終わったらすぐ退出し、マウスに怒りを込めながら乱暴にパソコンの電源をシャットダウンした。
冷たい水を一口飲み込んで、何がこんなに私をイライラさせるのか、自分の内面についてまるで他人事のように考えてみた。
その結果出てきたのは「私は怒ってはいけない」という我慢だった。
自分の話を聞かず寝ている人がいても、ニコニコしてなきゃいけない。
「お前の話には聞く価値がない」と言われてるように感じても、この場を乱してはいけない。
実際に寝ている人がいる事実より、自分の想いをそうやって抑圧していることの方が辛かったように思う。
「なんでもあり」「多様性」というとなんだか素晴らしい言葉のように聞こえるけれど、実際には「寝ている人がいるのを許す」のであれば「寝ている人がいるのを許せない人も同様に許す」という、非常にむずかしいものでもある。
寝ている人が許される以上、私にもそれを怒る権利はあったのだ。そう思った瞬間、怒りはスッと私の中から消えたのを感じた。見えた瞬間、消えた。
以前、ツイッターでこんな投稿を見かけた。
おだやかな場で私が怒り出したら、もしくは地下鉄で男性が泣き叫んだらおそらく周りの人はびっくりするだろう。
でも海外では誰かが怒りだしたりするのはごく普通のことらしい。みんな普通に遅刻してきたり、それに対して怒ったり泣いたりして、そうかと思うとケロッと仲直りしたりしている。
他人の話を聞いて寝ている人が許される場なら、私も今度から「わたし今イライラしてますう~」くらいのことを、笑顔でお見舞いしてもきっと大丈夫だし、そもそも対話の場に限らず、人はどこにいても、いつでも自由に振る舞って良いのだ。自由とはその名の通り、自らを由(良)しとすることである。
イライラはよくない感情とされやすいが、何年も、もしかしたら何十年も泣き続けている自分からの「助けて」というメッセージであることが非常に多い。
目を背けず、なかったことにせず、大切に扱っていきたい。
お知らせ🍀
いつもお世話になっている声の学校・アトリエカンテレ様の生徒さんへインタビュー記事を書かせて頂きました。
声に覆われたものから自由になって行く生徒さんのプロセス、ぜひお読みください!