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わたしたちの義務教育と社会のコンセプト
たまりに溜まった冬休みの宿題を半泣きで進める息子に、
1aって何㎡か知ってる?と聞かれた。
皆さんは答えられますでしょうか?
建築関係のお仕事とかだとよく使う単位なのかしら。知らんけど。
小4からアメリカの小学校で過ごした私は、これを学校で習った記憶がまったくない!(たぶん!)
なのでもちろん自信満々に"知らない!"と答え、教科書を持って帰ってきてない息子と一緒にググりましたよ。(まったくもう。)
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アメリカでの義務教育で重視されたもの
単に私が記憶喪失なだけかもしれないけれど、
おそらくアメリカでは、この情報は"社会人としての生活に必須ではない"こととして切り捨てられているのではないかと思う。
私のうっすらとした記憶の中でも、こういう暗記系のものは(少なくとも当時の)アメリカでは重視されなかった。
もちろん九九もなく、なんなら中学の頃から、ほとんどの計算は計算機を使って行っていた(テストに持ち込み可)。
ただ、数学が得意な子は、アドバンスドクラスと言って、確か放課後に別クラスで、より難易度の高い数学を学んでいたような。その流れで、数学の大会にもでた記憶がある(なぜかアジア人がとても多いw)。
つまり、学校の授業では(計算機を使った)実用的で基礎的な数学を学び、得意な子はその能力を義務教育内で伸ばせる環境があったということ。
もう一つ、日本にはなくアメリカにはあった教科というと、リーディングとライティング。つまり、読解と文章作成です。
リーディングに関しては、小説をまるっと一冊、音読等で読み進めながら、それに関して意見を交わす授業。
ライティングは、マインドマップでのひとりブレストから始まり、しっかりと起承転結になるようなアウトラインを作成し、それに即した文章を書くという、システマチックで論理的な文章作成メソッドを学んだ記憶がある。
この、メソッドを先に学んで実践するという手法、なんともアメリカらしく合理的だと思いませんか?
日本では、文章作成の方法を学ぶことってほとんどないですよね。でも小学生から宿題として日記やら読書感想文を書かせるのがお好き。(これ私と同様、苦痛だったお仲間は多いはず。。)
話を戻すと、(当時の)アメリカでは、自分の意見を述べることと、論理的に文章を構成するということが、社会人にとって必要な学びだと定義されていたと推測できます。
みんながみんな"1aが何㎡か"を知ってる必要はないが、自分の意見をまとめ、人にわかりやすく伝えることは誰しもができるべし、と考えられていたのではないでしょうか。
義務教育の目的とコンセプト設定
義務教育の目的が、"社会の中で一人の大人として生きていくために必要な力を身につける"ことだと定義すると、30年以上も前の時点でアメリカの教育内容の合理性にはとっても納得できますね。
誤解してほしくないのは、別に九九が必要ないとか、暗算できることに意味がないと思っているわけではないのです。
なんならインドでは、確か20×20まで?暗記してるんでしたよね。
だからこそ、ITに強い人材が多いのかもしれないし、それを前提にしている人間に見えている世界は、アメリカ人のそれとは全く異なるかもしれない。それぞれが異なる可能性を秘めていると言えます。
つまり、これから先、(日本という)社会がどんな社会になりたいのか、そのために義務教育のコンセプトをどのように設定するのかで、義務教育で学ぶ内容は変わってくるということです。
そして今、文科省では、生きる力、生き抜く力と設定されているようですが、果たしてこれが施策の隅々まで行き渡っているのだろうか?
関わる人が多いほど施策はブレやすく、関わる人間すべての理解と合意が必要不可欠で、かつそれに則った上でその場その場にあわせる柔軟性も求められる。
このインターナルブランディングとも言えるプロセスに、まだまだ課題がありそうです。(いやほんとこれ難しいのですよ)
私に似て計画性のない息子を不憫に思いつつ、コンセプチュアルな思考とその実践の重要性を感じた冬休み終盤の夜でした。