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トリュフォーのやりたい放題:『私のように美しい娘』
『私のように美しい娘』は、フランスにおける映画の革命的運動、すなわちヌーヴェル・ヴァーグの旗手であるフランソワ・トリュフォーが、1972年に撮った、13作目の長編映画である。
この映画で主演を務めるベルナデット・ラフォンは、自らの美貌を求めてやってくる男たちを1人ずつ、時にまとめて退治してゆく。その様は、トリュフォーの映画群が持つ、上品で崇高で美しい印象はあまりないのだが、程よく下品であばずれな彼女は痛快で、見ていて清々しい。
この映画は、時系列が3段階に分かれている。「現在」から始まり、とある社会学者が書いた本を巡って、回想に入る。女囚人として登場するベルナデット・ラフォンと、面会者として訪れる社会学者が話をする場面は「過去」であり、その面会の内容としてさらなる回想に入り、それは「大過去」である。
面会を重ねるにつれ、社会学者が女囚人の美貌に惹かれ、恋に落ち、彼女の無罪を証明しよううと奔走する様は、トリュフォーが敬愛する映画作家、アルフレッド・ヒッチコックの『パラダイン夫人の恋』とよく似た構造である。
ベルナデット・ラフォンというと、トリュフォーの処女短編作『あこがれ』(厳密に言えば、トリュフォーの処女作は『ある訪問』という短編だが、彼がこれを習作とみなしており、公には『あこがれ』が処女作ということになっている)で主演を務めている。『あこがれ』のラフォンから得る印象といえば、、無口だが、白く長いスカートをたなびかせながら自転車で駆け回り、白いウェアを身につけテニスに興じる、実に爽やかな女性だ。
一方で、『私のように美しい娘』のラフォンは、下品で卑猥な言葉を早口でまくしたて、時に犯罪的な手段を使って、まとわりつく男たち(トリュフォーのインタビューによれば、「ラフォンと寝ることしか考えておらず、彼女に何も与えようとしない男たち」らしい)を一掃する。
太ももがよく見える丈の短い服を着ることで男の目を引き、ヒッチハイクを成功させるのは、フランク・キャプラの『或る夜の出来事』に対するオマージュであり、レーシングカーの音がして道路を見るも、車は1台も通っておらず、おかしいと思ってみればそれはレコードの音だったというギャグも散りばめられている。
ラフォンは常に走っており、コミカルな印象を与える姿からはアントワーヌ・ドワネルに近いものを感じる。最も、何をやっても上手くいかず、いろんな女性を苛立たせてしまうドワネルと、男たちからの身の危険をスルスルとかわし、上手く世の中を渡り歩くラフォンは、器用さという面で大きく違うのだけれど…
そして、この映画で何よりも面白い要素は(今時この映画を観る機会なんて滅多にないと思うからネタバレを臆さずに語る)、女囚人であるラフォンと面会者である社会学者の立場が最初と最後で逆転してしまう。とあること(ラフォンの策略)がきっかけになり、映画の最後では囚人として牢屋に入っている社会学者の男に、社会復帰を果たして地位と名声を納めているラフォンが面会者として会いに来る。ここに、男よりも女の方が力が強いというトリュフォーらしい要素があるように思う。
自分のエゴに従いながら寄ってくる男たちを追い払う、孤独な女の戦略をコミカルに映画いた、おふざけの多い痛快なタッチで喜劇的な1作である。