和田誠に出会い、和田誠に恋をする。
和田誠。そうきいてピンとくる人もピンと来ない人もいるだろう。実際、ぼくは2年ほど前までは彼の名前は知らなかった。でも、彼の名前を知るまでにも彼が手掛けた本や彼の作品のいくつかには出会っていたので、多くの人がぼくのように知らず知らずのうちに和田さんのなにかしらに触れていることだろう。
和田さんは1936年に大阪に生まれ、幼い頃は外で遊ぶよりもうちのなかで絵を描くの方が好きで、落書きや漫画を作ったりしていた経験からか、小中高校生のころは科目べつにノートを分けず「オムニバス」という名のノートを作り(中学生にして「オムニバス映画」という言葉を知り、そこから自分のノートに「オムニバス」という名前をつけるだなんて、彼の才能の熟成がいかにはやかったかが伺える)、板書などよりも同級生や先生たちの似顔絵ばかり描いていた。高校2年生のときは各教科の担当の先生の似顔絵で時間割を作ったりしているからめちゃくちゃおもしろい。
それから多摩美術大学に入り、映画やジャズ演奏会のポスターを数多く制作、そしてライトパブリシティという広告制作会社に入るやいなや、いきなりハイライトというたばこのパッケージ・デザインのコンペで選ばれたり、日活名画座の映画ポスターを月に2枚ほど制作、これを約9年間も無償で続けたりと入社早々からほうぼうで大活躍。このあたりのことは『銀座界隈ドキドキの日々』という和田さんの著書に詳しく記されているからそちらを読んだ方がよいと思う。
数年の間ライトパブリシティで働き、独立をすると本業のイラストやデザイン、本の装丁はもちろん、映画にまつわる執筆、谷川俊太郎(通称:タニシュン)と絵本を作ったり、『週刊文春』の表紙を長年に渡って描き続けたり、村上春樹や安西水丸などと本を作ったり、作曲をしてみたり、映画を制作したり、舞台の演出をしてみたりと一般人には考えられぬくらい活動は多岐にわたっている。そして、平野レミと結婚してお子さんが生まれたあとは家族との時間も大切にし、映画もしこたま観ている。和田さんはもしかすると睡眠を必要としない類の人間なのではないかと疑ってしまうほどである。そんな感じで、亡くなる2019年まで活発な活動を続け、著書は200冊以上にわたり、装丁を手掛けた本や、制作したポスターの数はぼくにはもうわからない。和田さんとはそんな人なのである。
そんな和田さんの幼少期から晩年までの作品を、ダイジェストのように切り取り、一堂に会した展覧会が、(たぶん)2年くらい前から全国を巡回していた。それが京都にもやってくるという情報をぼくが得たのは、昨年秋のこと。ぼくは昨年の秋から楽しみで楽しみで仕方がなく、やがてその展覧会はあっという間に京都で始まった。
そんなとき、ぼくが店番を務める誠光社という書店のギャラリーで、和田さんの絵を展示するという情報が入った。和田さんが約9年にわたって作り続けたという日活名画座の映画ポスター。それを伝説的なグラフィック・デザイン展「ペルソナ展」に出品するため、イラスト部分をトリミングし、シルクスクリーンで刷り直したという和田さんの作品たちが、誠光社のレジ前の壁にずらずらと並んだ。ぼくが誠光社で「和田誠 日活名画座ポスター集」という画集を手に入れたのは今から1年ほど前のこと。繰り返しめくってきた画集のなかにあった、和田さんの描く映画の中のスターたちにお目にかかれるのだとときめいた。そして、店番中もその画集を開き、実際のポスターと壁にかかった映画スターたちを見比べながら、「これはジーン・セバーグだ」「こっちはカトリーヌ・スパークだ」と独りごちていた。自分が最も愛する作家の1人である和田さんの作品を目の前にするというのは、ほんとうにたまらないのだ。そして、和田誠展の招待券をとある場所で手に入れたぼくは、次の休日に和田誠展が行われている“美術館えき”へと足を運ぶのである。
つづく。