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あの〔鉢の木伝承〕の結末が本当だとしたらちょっと寂しい件

昨日1月16日は旧暦でいうと「藪入り」ということをつぶやいてみました。
(;´・ω・)オショウガツ

また1月16日は「囲炉裏の日」でそうです。
「1(い)」?うん?
「6(ろ)」?うんうん?
「(り)」?(。´・ω・)? リ?

いえ、「いい炉(#116)」だからです。
なるほど~(; ・`д・´)💦

鉢の木のおはなし

囲炉裏で思い出しますのは有名な「鉢の木」のお話です。
ざっくりとご説明しますと、こんな感じです。

ある旅の僧侶が大雪に見舞われ、一夜の宿を求めて民家を訪ねました。家の主人は最初、「うちは貧しくて泊められない」と断ったものの、吹雪の中に行かせることも可哀そうと思い、家の中に招き入れました。

主人の名は佐野源左衛門常世げんざえもんつねよ。没落した元御家人です。
常世は僧に囲炉裏で暖をとらせ、やがて薪が尽きると、自分が大切にしていたなけなしの梅・松・桜の鉢の木まで折って火にくべ、僧をもてなしました。

常世は、「不正により一族に所領をだまし取られて今はこう落ちぶれてはいますが、それでも武具と馬の手入れは欠かしていません。大事の時は、『いざ鎌倉』。いの一番に馳せ参じる覚悟です。」と、囲炉裏端で僧に語りました。

やがて春になり、鎌倉から一大事との招集がかかりましたので、常世も痩せた馬にまたがり、みすぼらしい鎧で駆け付けました。

「やぁ、いつぞやはありがとう。やはり来てくれましたね。」
常世の前に現れたのはあの日の僧、その正体は鎌倉幕府5代執権、北条時頼だったのです。

時頼はあの雪の日の囲炉裏のもてなしと、常世の御家人としての矜持、奉公の精神に感銘を受け、常世がだまし取られた本領をすべて返還し、そして鉢の木にちなみ、上野井田、加賀田、越中井などの所領と小田原を与えたとのことです。

この「おもてなし」や「忠義」の精神は観阿弥(世阿弥説も)によって謡曲となり、現代にまで美談として語り継がれることとなりました。江戸時代は舞台の演目になったほか、戦前は尋常小学校の教科書にも載っています。(戦時教育という観点はさておき)

好きです(=゚ω゚)ノこういう話。
暴れん「某将軍」も、遊び人の「お奉行」も、印籠フラッシュの「御老公」も。

身分を隠して、油断させて悪を成敗。
正直者は救われ、努力する者は報われる。
良きコンテンツではないですか('ω')ノ

撫民政策と廻国伝説

人のものを勝手に奪ってはならない

今では当たり前のことですが、鎌倉幕府成立以前は「律令」という貴族が運用する決まりごとがありましたが、武士に対しての明確な法律がなく、一部の武士はやりたい放題でした。
村々で横暴な武士が略奪と殺人を繰り返すものですから農村は離散し、税収は下がる一方でして、初期の鎌倉は紛争の報告や調停の訴状が多かったそうです。



鎌倉幕府以前の武士はどちらかというと貴族の手先として代理戦闘をする専門職、「戦士」としての色が強かったのですが、鎌倉幕府という本格武家社会の成立後は、貴族から移行した武家の所領を守る治安維持の専門職、「警察」へと変化していきました。

武家の所領は幕府が朝廷認可の元に与えたものであり、武家はその所領の守護職となる代わりに領内の強盗、殺人犯、謀反人などの不法行為をする輩を取り締まり、安定した税収を上げるようにしてくださいね、しなければ解任しますよ、と鎌倉幕府は決めたのです。

その法律が3代執権北条泰時が定めた、かの有名な「御成敗式目」です。
ですから、「武士は人のものを勝手に奪ってはいけない」と、一応定められたのはこの時期です。

守護の中には代官を村々に送り勝手に村人を思うがままに使ったり税を集める者もいる。また国司でもないのに地方を支配し、地頭でもないのに税をとったりする者がいる。それらは全て違法の行いであり禁止する。

御成敗式目第三条:現代語訳

源氏将軍が3代で潰え、承久の乱が勃発するなどの政情の中、執権北条泰時は武士を無頼の徒から統率された警察集団にするとともに、疲弊した農村の復興に力を入れ始めました。

「鉢の木」に登場する第5代執権北条時頼は、この3代執権泰時の孫でして、父の時氏が若くして亡くなったため、祖父泰時の元で育てられました。

次いで兄の経時が4代執権となりますがこちらも早世で、5代執権に就任します。この頃、有力御家人同士の熾烈なパワーゲームや嫡系の相次ぐ早世などで、北条家の執権としての政権基盤は揺らいでいました。

特に頼朝公以来の譜代、三浦党は北条家を脅かす勢力となっていたため、謀略をもって滅ぼすなど譜代他家排斥を進めます。
このように執権として権力の地固めをしつつ、一方で独裁と非難されないよう表向きの合議制とするなど、北条政権の安定化に心を砕きました。

さらに時頼は祖父泰時から引き継いだ武家統率と農村復興を進めるため、撫民ぶみん政策を打ち出します。撫民とは武士が民をでるがごとく保護し、年貢の基盤である農村を活性化し、長期的な税収の安定化を図りました。

幕府と主従関係を結ぶ御家人は、幕府から委託を受けた「自治体の長」として所領の統治と警察機構を担い、そこで不法行為をはたらく武士を厳しく取り締まることとなり、その結果治安の回復と農村の復興が少しづつ見られるようになりました。

そうは言っても「泣く子と地頭には勝てぬ」ですから、ある程度強制的な徴税の執行はあったかと思いますが……。

また時頼は鎌倉に建長寺(鎌倉五山第一位)をはじめとする禅寺を次々と建立し、「時間や規律を守ることの尊さ」や「民への慈悲」、「質素倹約」など、御家人の教育に力を入れました。

かつて東国武士は腕っぷしばかりで教養が低く、行政に疎いと言われ、赴任先で訴訟の物種となっていましたが、次第に武芸に加え、教養と規律を身に着けた職能集団へと変貌を遂げます。つまり幕府の禅宗奨励は御家人のジョブトレーニングの一環でもあったということですね。

このような撫民政策などの背景もあり、時頼は民を大切にした政治家として世に広く知られたため、僧姿で諸国を放浪し世直しをする廻国伝説が生まれたのでしょう。時頼は36歳の若さでこの世を去りますので、諸国を放浪する時間もなかったでしょうし、「鉢の木」の話もおそらく作り話ですが、そういった逸話が作り出される素地はあったのでしょう。(執権はストレスなのか、早く亡くなる方が多いです。糖尿病家系だったという説もあります。)

おわりに

「鉢の木」のお話が生まれた時代背景を紐解くと、その時代、武士、御家人がどのような立場の人間だったか解ってきます。

群馬県高崎市にはこの「鉢の木」の舞台となった佐野源左衛門常世の住居跡と伝わる場所に「常世神社」が建てられており、真偽未詳ながら逸話を知って参拝に見える方もいらっしゃるそうです。

しかし、佐野源左衛門常世の本領はその名の通り栃木県佐野市にあったといわれており、常世の墓も市内の願成寺にあるとされております。こちらの真偽も定かではありませんが、佐野常世という人物はいたようです。

産経新聞栃木版2017年の記事によりますと、願成寺に伝わる「鉢の木」のお話は、一般に知られている伝承とちょっと違うそうです。

「鉢の木」の話には前後の脈絡があり、特に後日談は寂しい結末です。

時頼の沙汰により所領を回復した佐野源左衛門常世は、小田原に行く途中で増水した川に行きつきます。家来が躊躇するのをよそに「これくらいが怖くて戦に行けるか!」と小舟を乗り入れます。

岸に着く直前、濁流に飲まれて、小舟は流され、
みな水死し、常世の遺体は見つからなかったとのことです。

あぁ結末知らなきゃエエ話やったのに……( *´艸`)

ちなみに私は小学校のころ、「まんが日本の人物事典」で「鉢の木」のお話を知りました。この頃の学習まんがって、史実と逸話が混在しているようなストーリーだった気がします……(*'ω'*)

最後まで読んでいただきありがとうございました。

ちなみに私の記事「福田餅」は、上杉鷹山公が身分を隠してヒデヨさんという老婆を助けるお話です。もしよろしければこちらもご覧になっていただけると幸甚です。



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