過去と再現

 上掲した永井均のツイートを契機として,本項では,記憶表象と過去との区別はどのようにして可能であるか* を検討する。

 記憶表象と過去のそれぞれを反省してみると,前者が後者にたいして恒に抽象的であることは私には殆ど自明に思われる。*2

 よって,素朴には「情報的な包含関係を把捉することで,記憶表象と過去との区別を可能としているのではないか」という仮説が考えられそうである。これは,抽象的ではあるが,本題に一つの答えを与えるように見えるかもしれない。「記憶表象と過去との区別はどのようにして可能であるか」という題意に対して,「包含関係の把捉がそれを可能ならしめる」と答えるからである。

 ところが,その包含関係の把捉はどのようにして為されるのかについては,次のような議論がある。

 一般に,包含関係が把捉される為には,それぞれの項が対比される必要があると措定しよう。すると,本項で話題となっている包含関係は“記憶表象”と“過去”(という二項)に掛かるものだったから,議論は,記憶表象と過去の対比を可能ならしめる事情はなにか*3 に遷移すべきである。

 まずは,記憶表象の次のような本質を分析することで一つの仮説が得られる。その本質とは,我々がある過去 X を想起することで記憶表象 MX を得るようなとき,通常それが知覚に由来していない事が並行して自覚できるという事である。この事は,(少なくともこの議論では)記憶表象には知覚が欠如する*4 というパラフレーズに注目すると,専ら感性の側から規定できるようである。

 さらに我々に備わる通常の力能として,X が元来は知覚を伴っているものだと理解することも出来るはずである。そうして我々は,知覚を欠如してしか得られない MX と,しかし──それが元来は──知覚を要件としていたはずだと理解する X から生じる緊張によって,MX が X の再現だと自覚できるのである。本項ではこの仮説を(記憶における)対-知覚説と仮名する。

 しかし,この仮説には,「感性によって MX を得るまではよいし,悟性によって X の様態(少なくとも知覚を備える)を理解するまではよいが,この二つの働きを並行して機能させることなどそもそも可能なのか」という疑義があり得るのではないか。

 私は,少なくともある実体(ここでは X )について,感性と悟性を並行して機能させることは容易だと考えている。感性と悟性の並行的機能という面に限ってみれば,カテゴライズがそれを前提としなければならない好個な例ではないか。

 一輪の花を知覚表象し,それを[花](というカテゴリーに属するもの)であると理解するような事態を考えよう。つまり,実際には一輪の花しか知覚されていないのに(換言すれば,一輪の花が知覚表象されているときに)概念化のために,それを[花]という全の内に配置するのである。

 このようなカテゴライズを,感性と悟性との並行作業だと考えるならば,それは対-知覚説を擁護する強力な証拠になる。

 他にも,思考自体が項を操作するものであり,(このときの)項が感性を働かせずに得られるかには強い疑義がある。

 対-知覚説は,感性の側で受けた(再現された)表象と,悟性*5 の側で把捉するそのあるべき様態との緊張から,再現が過去のそれであることを我々に自覚させるのである。







* 原則として,本項で問題となる“過去”というのは,その記憶表象に対応するものとして考えられている。

*2 なぜなら,表象というのが知覚に働きかけないものであると措定されており,仮に前者が過去の情報量を超えるようなときは,既にそれは(その)過去の記憶表象だと評価すべきではなくなるからである。(この場合,記憶違いとでも言うべきではないだろうか)少なくとも,ここで議論すべき記憶表象は,過去に対する純粋なそれを措定しているのだ(し,そうあるべきであろう)から,記憶表象が過去に対して恒に抽象的であるというのは分析的に肯定すべき命題である。敷衍すると,過去という実体は知覚(に担保される)表象であり,その再現という体感は知覚を伴わない表象である,という区別が詳しくなるだろうか。

*3 まさにこのトピックが,本項の冒頭で上掲した永井氏のツイートに重なると思われる。少なくとも本項の読解はこれである。

*4 表象の定義として,知覚によって生起するものを一般的には知覚表象と呼び分けるべきだ,という議論とは別としても,この議論における(記憶)表象は過去の再現であることに注意しなくてはならない。また,もし記憶表象が知覚される刺激を伴うのであれば,それは過去のものではなく,──その記憶表象によって二次的に生じた──現在の刺激として捉え直されるべきではないか。

*5 ここでは理性でもよい。なんにせよ「その過去には知覚が伴っているはずだ」と理解させてくれる感性とは別の力能を指す。この「知覚が伴っているはずだ」という理解と,「現にその表象には知覚が伴っていない」という体感から生じる緊張が,再現がそれであることを自覚させるというのが対-知覚説であった。

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