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「大事な作品は売らない方がいい」東京藝術大学学長 日比野克彦さん インタビュー[前編]

この記事はNYXが開発する「CONTRUST(コントラスト)」の研究活動として、クリエイティブに携わる人の声や経験談を広く共有する企画です。
私たちNYXについては下記の記事をご覧ください。

今回は開発レポートではなく、東京藝術大学学長・日比野克彦さんにロングインタビューを行いました。[前編][後編]に分けてお届けいたします。掘り下げ難い題材にまで踏み込んだインタビュー。ぜひご覧ください!(※後編は11/20(水)更新予定)


お話してくれた人


日比野克彦(ひびの・かつひこ)さん
アーティスト歴40年。2022年より東京藝術大学 学長を務める。今回「絵を売買すること」を軸に、自身の作品管理の悩みや日本の美術・今の藝大が抱える課題、学長としての仕事と壮大な展望についてもお話いただきました。
詳しいプロフィール▶︎  https://www.geidai.ac.jp/outline/introduction/president


インタビューに参加した人


◾️インタビューに入る前に◾️


プロローグ

大久保: インタビューに入る前に、まずは日比野さんとの関係性について皆さんに共有します。私と作田くんは東京藝術大学で助教授だった時代に日比野さんから直接教わっていた学生でした。

時を経て、「最近どんなもの作ってるの?」と、日比野さんから近況を問われる機会があり、私は産休明けで本格的に活動を再開、自社で研究開発を行っているタイミングでしたので、研究の一環としてインタビューさせて欲しい旨を相談したところ、快諾いただき実現したのが今回です。「大事な絵は売らない方がいい」という表題は、実は24年前に日比野さんが私たち学生に対して発した言葉ですが、門下生として改めてこの意味を聞いてみよう!という趣旨となります。

* * *

背景

東京藝術大学学長インタビュー遂行にあたり、随分と緊張感を伴うトピックである「作品を売買すること」について訊くキッカケとなった出来事がある...。それは、日比野克彦学長がまだ助教授だった頃までグッと遡る。

就職氷河期 ”ロストジェネレーション” インタビュアーの私(大久保)が、東京藝術大学入学と同時に日比野克彦研究室へ出入りしたのが今から24年前。現代アートという言葉も世間的には初々しくて、今ほど高い認知のなかった2000年のこと。見渡せば、ネット産業と家電のモバイル化はとっくに助走を終え、アート&テクノロジーが親和性を帯びていた時代。門戸を叩いた日比野研究室はさぞダンボール三昧だろうか(※1) と思いきや、まるで違っており...。

当時の日比野研は「ストリーミング・インスタレーション」という方法で毎晩インターネットドラマのライブ配信(※2) を行い、フィールドワークのため全国各地へ赴き、取材した動画をNHKの特番コーナーへ提供し、必要があれば学生も出演する。研究室に在籍する生徒は皆、最低限のデジタルスキルの会得が必須となっており、筆と共に自前のPCを持ち、画像を加工し、カメラを構え、映像編集スキルを習得し、ネットを駆使し、来るデジタル・クリエイティブ時代への変遷に備えていた。

(※1)  日比野克彦さんはダンボールを使った作品で著名。
(※2) PC雑誌 週刊アスキー編集部のメンバーによるストリーミングサービス[らじ@]の技術協力で実現したコラボレーション。

このデジタルまみれ感が、師弟関係をもフラットにさせたような雰囲気があって、当時のアカデミックな場ではタブーだった ”作品の値段に触れる” という緊張感を一気に弛緩させた。アナログとデジタルが混在する日比野さんの事務所で、学生の一人が部屋の壁に立てかけてあった絵をおもむろに指し、単刀直入「日比野さん、その絵の値段、幾らですか?」と聞いたのだ----。

あの頃の日比野さんの髪色は青や金髪だった

そう、学生の無礼極まりない質問に対する言葉の最後が「大事な作品は売らない方がいい」という結びだったのです。


* * *

現代アート市場と当時の時代背景

「大事な作品は売らない方がいい」---日比野さんがそう話した2000年頃の美術業界の背景を数字で振り返ると、全世界の現代アートオークションの取引額は推定約一億3000万ドル(約142億7400万円)(※3)、これは美術品・骨董を含む美術市場全体のたった3%という規模であり、社会に現代アートの存在感を示すには程遠い市場だった。美術分野を志す若者への風当たりは冷たく「金にならないのに、何故藝大に行くのか」「将来どうするんだろうね」なんて、すれ違いざま肩を掠める言葉は一度や二度ではなかった時代だ。

(※3) 世界の美術市場2023年度の年間取引額は650億ドル(約9兆6000億円)。但しこれは古典絵画や骨董まで含まれ、現代アートはこのうち22億9000万ドル。世界の美術市場の15%の規模。一見少ない数にも見えるが、Artprice by Artmarketのレポートによれば2000-2020までの間に+2,100%も伸びた市場である。

The Art Basel and UBS Global Art Market Report 2024, Artprice by Artmarket

* * *

偶然にも、インタビュアーで同行したメンバーのひとり(森山)が、藝大音楽学部の受験を望むも家族の反対あって断念し、理系に駒を進めたという、当時の世情をよく反映した体験談を持っており、今回のインタビューではこの時代背景について日比野さんが[後編](※11月20日更新予定)に、「日本美術150年の課題」として深く話していますので、ぜひ最後までご覧ください。


◾️インタビュー◾️


作品売らずの初個展

大久保: 作品を初めて売った時のこと、覚えていらっしゃいますか?

日比野: 芸大の卒業制作の時に見に来てくれてたギャラリーの人が「展覧会やりませんか」と言ってくれたことがあります。それで、一番最初の個展が、藝大の美術学部を卒業して、大学院に入ってすぐの4月のことでした。代々木のギャラリーゴーシュっていう、今はもうないんだけれど、そこで最初に個展をやったのね。そこで展示した半分ぐらいは卒業制作で出したもので、残りの半分は新作を作って。大学院に入ったら、7月に銀座の貸し画廊で個展をやると決めてました。

当時、大学に入ったら、学部まではみんな(大学の)中で制作して、大学院になったら外にアピールしていこう!という風潮だった。銀座の貸し画廊を自分で借りて個展をやる、みたいなことだった。確か、貸し画廊も、1週間で十万円弱位で借りれたんだよね。で、頑張って借りて展覧会やるってのは自分で決めてたんだけど、その前に、学部の卒業制作を見たギャラリーの人が個展をやらないかと言ってくれたものだから、それは自分としては予定外だった。そのときに、ギャラリーの方から作品を売るように言われたんだけど、売らなかったんですよ。 そもそも、作品を売って生活の糧にすることもどうなんだと思っていたし、今もアートコレクターの在り方が確立されているとは思わないけど、特に当時、アートコレクターの元に作品が行くってどうなんだ、と思っていた。 それよりは、自分はデザイン科だったので、例えばポスターになるとか、いろんなメディアに載せるほうが、何万人にばっと出てくるわけだから、そっちの方がイメージに合っていたんです。表紙になるとか、雑誌のカットになるとか。 だから物として売って、買ってくれたら、その人一人の満足になるけども、それで対価としてお金もらってもちょっと違うなという思いもあり、当時、売らずに展覧会だけやっていろんな人に見てもらっていました。


展覧会で得たかったもの

日比野: 同時期に、イラストレーションという雑誌の中のチョイスというコーナーで、一人の選者が応募公募してきた作品を選んで、それを紙面で紹介するという新人登竜門みたいなのがあったんです。そして、第一回目の選者は湯村輝彦さんでした。 それを見て、「湯村さんだ。じゃあ応募すれば、あの湯村さんに作品を見てもらえるな」と思って、それで応募しました。そうしたら、チョイスに選ばれて、湯村さんに作品を見てもらうことができました。ゴーシュで展示をやっているときに、湯村さんが新宿に住んでいると知っていたから、湯村さんに見てもらいたいなと思った。そして、イラストレーションの編集長を経由して、「チョイスで選ばれた日比野ってやつが今代々木で展覧会やってるから見に来てくれ」って言ってますけどって、編集長から連絡してもらいました。 そうしたら、湯村さんと奥さんが2人で見に来てくれたんです。私からしたら、もう憧れのすごいイラストレーター。自分としては、「湯村さん来てくれた、これは展覧会やってよかったな」と。 だから、作品を売るというよりは、自分の世界観をいろんな人に見てほしいし、世界観を自分で作りたい、自分の作品で空間を埋めることの楽しさ。まず、そこに自分がいたい空間を自分が作ることが展覧会の大きな大きな目的で、そこに友人や憧れの人がやってきて、「なるほど、これが日比野の考えていることか、イメージしていることか」と、それを見せたい。一個一個売りたいというのはあまり考えてなかった。結果、湯村さんが来てくれて、「すごい面白いね」って言ってくれて。で、そこで湯村さんのサインを貰いました。

日比野さんにも憧れの方がいたようです

大久保: 日比野さんでもサイン貰うんですね。

日比野: イラスト入りのサインだったよ。

大久保:そのサイン、今はどうされてるんですか?

日比野:・・・どっかにあるはず。

一同:


号いくら?の世界

日比野: そういうこともあって、展覧会いいな、やってよかったな、と思えた。その少しあとに、ギャラリーアネックスという銀座のギャラリーで展覧会をしたりして。 更にあとには、パルコのグラフィック展っていう日本イラストレーション展のコンペティションでグランプリを獲って、自分の名前も世の中に出てくんだけども、銀座の個展はそれよりも前のことです。 そこからさらに、日本グラフィック展で大賞をもらうと、いろんなところでギャラリーから展覧会やりませんか?とお話を頂くようになりました。

そして、当然、いくらで売りますかって話になるんですよ。「号いくらからいきますか?」と。今でも覚えています。誰々の作品は号いくら(※4) ですよ、と。それ見せられて、なんじゃこれと思って。 これは違うな。俺の世界とは。号いくらからいくとかじゃありません、みたいな。「号これくらいから行くと・・」っていうなんか保険のセールスマンのように言われた。これはなんか違うなと思って。 だから、専属のギャラリーとの付き合いというのは今でもないんですよ。  

(※4) 号いくら=号はキャンバスサイズのこと。1号の価格を基準に、号数が上がれば値段も上がる。また、美術市場では販売基準価格を一度上げてしまうと、簡単には値下げすることが難しい。一般的に、作家直販ではないプライマリ市場(ギャラリーや百貨店など)にて売り出される新人作家作品の売買は近年では1号約4万円前後で取引されている傾向がある。


作品の値付けが分からず・・・

大久保:ギャラリーとのお付き合い、全くないんですか?

余程でない限り「仕事の誘いを断らない」と学生間で噂だったレジェンド

日比野:全くない。とはいえ、友達や知り合いのところで展示会をするからなんかやってよみたいな依頼はいくつかあって、まあ、そういうところで作品を売るようにはなるんだけども。 自分の作品に、一番最初に値段をつけなくちゃいけない時に困るじゃないですか。

今でもよく覚えているんですが、当時、安井賞取った有元利夫先生が、藝大のデザイン科に非常勤講師にいらしたので、有元さんに「作品ってどうやって値段つけるんですか?」みたいな相談をしたことがありますね。

大久保: やっぱり、日比野さんでも作品の価格は第三者に相談するんですね。

日比野:全然基準がわからなかったんですよ。有元利夫さんは銀座の彌生画廊とかでやってて、ガンガン売れてたから、有元さんどうやって値段つけてるのかなと思って。作家活動もしていて藝大デザインの非常勤講師でもあったので、一番聞きやすかったんです。 有元利夫さんは、デザイン科を卒業して、電通に入って、電通にいながら絵は描き続けていて、安井賞にエントリーして大賞をもらって電通を辞めた。そして、藝大に一時教えに来ていた。若くしてなくなっちゃうんだけども。そんな有元さんに聞いた記憶はあります。  

大久保:初めて売った作品について、覚えていますか?

日比野:うーん、なんだったのかな。ちゃんと覚えてないですね。


美術館に作品が収蔵される場合

作田: 日比野さんの作品は美術館に収蔵されているものもありますよね。この間も、地方のとある企画展で岐阜県美術館の収蔵品として出品されているのを見ました。 美術館に収蔵されるのはギャラリーが介在したりするんですか?グループ展や個展をやっていれば美術館から直接依頼というのもありそうですけど。  

日比野: 私は、自分の作品は基本的に全部自分が持ってるんですよ。岐阜出身なんですけども、岐阜市の実家の横に倉庫建てて、そこに全ての作品が基本的にある。展覧会やるときにはそこから出して展示して、作品集を作るときにもそこから出して撮影している。 美術館がコレクションしたいという時には、学芸員が倉庫に見に来て、現状調査して保管状況の調査をする。そのあと収蔵したい作品をセレクトして、美術館側の収集委員会にかけて良いか聞かれて、収集委員会で決まると、作品の評価額がわからないといけないので、評価額は(日比野氏側で)書いた上で、収集委員会に提出して、最終的に収蔵が決まる。 美術館への収蔵も、私の場合はギャラリーが介在していないんです。


コレクターとの関係性

大久保: 作品販売後、購入者との関係はどうなっていますか?また、コレクターとの関係は、どんな関係がベストだと思いますか?

日比野:いくつかのギャラリーで、京都のギャラリーとか、いっとき青山のギャラリーとかに出すと、必ず買いに来てくれるコレクターさんがいた。 コレクターさんのひとりに、岐阜のお寺のお坊さんがいて、別の仕事のついでにお宅に行ってみたら、いろんなところで使った作品やグッズとか書籍とか、Tシャツが置いてあって、日比野コレクションルームみたいなのが、お寺の一角にあって、ミニ日比野ミュージアムみたいになってたんですよ。 それを見て、いゃあ、ありがたいなあ、ありがとうございます、と。その中には、そういえばこういうのも描いてたなっていうのもあって。作家って自分の作品を全部覚えてるかっていうと危うくって。作品集に載せたのは確実に覚えているのだけど、作品集に載らなかったり、作品を作ってすぐに渡してしまったものは覚えていない。 わりと僕、手が速いから、例えば、6時間で雑誌の表紙を描いたとする。でそれを、雑誌社に送って、それを向こうで撮影して、雑誌に載って、2週間だけ表紙を飾ったと。そしたら、雑誌社から掲載紙が封筒に入って送られてきて、それが倉庫に行くと。そうすると、なんと完成してから見てた時間でいうと、きっと2、3分しかない。 もちろん描いてる時は見てるんですよ。でも、完成してからそんなじっくり「いやぁ、ふむふむ」って言って見たりしない。

事務所には作品受け取りのバイク便がよく来ていた

作品管理者 ”レジストラ” 不在問題

日比野:展覧会をやるときは自分で設営したりするから作品を見る時間があるわけだけど、結構メディアで仕事してるから表紙とかイラストとかっていうものってなると、こんな作品あったなっていうのはたくさんある。 それって今すごく私の中の大きな宿題としてあって、「日比野さん、展覧会やるから作品の目録だしてください」と言われても、ない、という問題に直面している。  

作田:ギャラリーがついていれば、そういうのも整理してくれるんでしょうね。

日比野:自分も目録を整理しなければいけないというのはあって。今連続テレビ小説で、『らんまん 』(※2023年放送のNHK朝ドラ) やってるでしょ。主人公は植物学者で、採集だけしてくるけど、それ全然整理できてないもん。「もうおじいちゃん、ちゃんと整理しといてよ」なんて言われてるけど、これ他人事じゃねえなみたいな。私の場合、一体誰が整理するんだろう。

只事ではない雰囲気になってきました

大久保:今はご自身で整理しているんですか?

日比野:2011年まで、私の母が生きていたころは、東京で作品を作ったり撮影が終わると、岐阜の実家に送ってた。岐阜に母がいて、自分が送ると整理して、倉庫の棚にしまってくれていた。作品を出すときも、この間の作品をどこどこに送って、とお願いするとはいわかりました、って送ってくれていた。  

作田:それ、レジストラ(コレクション作品の管理者)じゃないですか。

一同:笑(※日比野さんの作品は比較的サイズが大きく、量も膨大なため、現場を想像して笑っている)

レジストラとは、博物館の収蔵品を特定し、収蔵品リストに登録したり、他の展覧会への貸出等の記録をし、さらに出来事や人、場所との関連性を記録し作品管理簿に保存する、作品関連情報記録の専門職。作品関連情報には、収蔵品の名称、寸法、制作や収蔵に関する年月日、収蔵番号、貸出記録や出版された文献、関連する別の収蔵品や他の機関の収蔵品などが含まれる。 こうした記録の目的は、美術館や博物館などの機関が所蔵するすべての収蔵品について情報を集めて説明できるようにすることだが、日本の美術館では専門職が置かれていない場合がほとんどで、収蔵品の整理も十分ではないと言われている。

解説: 作田知樹

日比野:そう、レジストラなんだよ。今は妹が引き継いでいるんだけど、彼女はレジストラじゃないんだよね。母は、作品の整理が生き甲斐だったので、もう完璧なレジストラだった。貸出先から作品が返送されてきたら、掃除して箱に入れて、お礼のお手紙まで書いて。「どうもありがとうございました、息子がお世話になりました」って。 その頃は、「日比野さんのお母様に大変丁寧なお手紙をいただきまして」みたいな、昔ながらのそういうのあるじゃないですか。自分としては、そうだったんですか、全然知らなかった、みたいなこともあって。 以前は母がそうやってレジストラをやってくれていたけれども、じゃあ次、妹が引き継ごうと思っても、母が作品の整理のためにつけていた手帳の解読がなかなか難しいわけなんです。なんだろうこの「2の4」とか「への6」とか。本人は見ればわかるんだろうけど他の人には難しい。一回出したものを別の場所にしまい直すと棚の整理番号が違っていたとか。後からこれをやろうとなると、大変なんです。母が亡くなってこの15年間ぐらいかな、やばい感じになっています。(整理できていない)


大久保:そういえば私が学生の頃、美術館への作品インストールを手伝っていた際にヒビノスペシャル(事務所)のアシスタントさんから伺いました。お母様が作品管理を全部やってくれてるって。

日比野:ヒビノスペシャルっていうのは、会社名で、それは私が仕事し始めた時に作った自分の会社なんです。そこには確実にアシスタントが一人ずついたんですね。大体まあ三年とか四年ぐらいで次のアシスタントに行くんだけども、そのアシスタントが事務的な整理したり、スケジュール管理したりしてくれていて。

大学の学部長になってから、会社の事務所を渋谷からこの間なくなっちゃったアーツ千代田3331にうつしたんですよ。3331の一教室の中に会社を置いて、そこにアシスタントもいて。 でも、だんだん藝大のほうが忙しくなり、自分の会社よりも大学の業務になってきた。学長になってからだと、学長秘書はいるけれど、会社のほうのアシスタントはいない状態です。  

大久保:ヒビノスペシャル自体は現在もまだあるんですか?  

日比野:会社もあるし、会社が管理している倉庫もあるが、優秀なレジストラは亡くなり、アシスタントはいなくなり、学長秘書だけは居る状態。 それで、もともと会社のあった渋谷のマンションも立て直し、その後入った千代田3331も(建物の老朽化に伴う千代田区との契約満了で)無くなり、結果、この学長室にいろんな資料が来ている。

大久保:あははは。今インタビュー会場となっているこの学長室・・・当時のヒビノスペシャルにあったものがあったりして、懐かしいなとは思ったんですよ。あまりにも学長室っぽくなくて入室した瞬間笑っちゃった。

会話内容が『しくじり先生』(※5) みたいになってきちゃいましたけど・・・敢えて今、学生たちに言うなら、作品の管理だけはちゃんとやっておこう、という教訓になるんでしょうか? 

(※5) 2014年〜現在、テレビ朝日系列で放送されているバラエティ番組。

日比野:そうねえ、どっからどう進めるのがいいのかな(笑)。  

作田:自分で作家業を営むなら、そこまでのことを考えておかないといけないってことですね。ギャラリーと組むのはまた別の話かもしれないし。

大久保:アーティスト歴40年が言うんだから間違いない・・・!  

日比野:もっと言えばね、日本は美術に関係する人の職業の数が少なすぎる。作家がいて、キュレーターがいて、評論家がいて、美術館の学芸員がいてとか、それぐらいしかなくて。レジストラとか、もっともっと美術全体を支える職業の数がないと、やっぱり作家一人では無理だって!

何もしくじっていません

大久保:笑。いや〜、無理ですよ。私もフリーの期間が長いので、大変さを実感します。

作田:作品を管理してくれる人、倉庫を管理してくれる人、広報してくれる人、いろんな職業でみんなでこう成り立つ、という形にしていかないと、アート業界が生産性のあるものになっていかない。  

大久保:藝大として今後、こうした多面的な取り組みを行っていく予定は?

日比野:そうそう、やっていくやっていく! 去年の秋からキュレーション教育研究センターっていうのを熊倉先生中心に作っていて。

今の学芸員免許って美術館学院実習とか行うじゃないですか。ただ、それはホワイトキューブの中でのやり方で、街の中でインストールしていくには、それだけじゃ無理なんですね。熊倉先生というのは、北千住の地域の中のアート活動やメセナなんかもやっていた。より街の中にっていう先生なんだけども、そういうところで展開していける能力のある人材を育成する教育をしていこうというので、始めている。

ー後編へつづく!ー (※後編は11/20(水)更新予定)
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