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読書録:「人はなぜ夢を見るのか」⑤現象学的研究編

著者の渡辺氏は、夢の深層心理学や脳生理学的・進化心理学的な研究の他にも現象学からみた夢研究を試みている。渡辺氏はイリヤのような預言者やキリスト・ブッダの様な宗教指導者はおそらく明晰夢を見たことがきっかけで現実世界もまた夢と区別ができないとみなし、より「目覚めた」世界を目指して宗教的・形而上学的な探究を始めたのではないかという仮説を提唱している。

夢を夢「そのもの」として理解するには、夢の世界を内部から観察しそれを理解する・その原理を法則を明らかにする必要がある。主観的解釈を「解釈」したり「分析」したりせず「現象」そのものとして忠実に観察・その構造を「明晰」にしようとする現象学はこのような夢の内部理解に適している。

現象学では、とある人が主観的に経験した世界を「体験世界」と呼ぶ。例えば今私は夢のことを不思議に思いながら本の内容をせっせと写しているが、この状態で考えていること・目や体が感じていることの総体が体験世界である。

現実・夢での体験世界・時間構造の違い

人間の体験世界にはまず時間の構造があり、過去→未来という「時間の方向」がある。このような時間の方向は「熱力学第二法則により常にエントロピーは増大するから、エントロピーの増大こそが時間の正体である」というような物理的なものではなく、その人が知覚している「現在」を起点とするような時間のことである。

体験世界における人間は、唯一無二の「現在」を生きている。現在の人間は今ここで起こっていることを「知覚」することができる。それに対して、まだ起こっていない未来の出来事に対しては「予期」のみを、過ぎた過去のことに関しては「想起」のみをすることができる。知覚そのものが働くのはわずかな広がりを持った「今、ここ」の体験世界のみであるというのが現象学における時間・空間の基礎構造となる。

これが現実だ、という「確信」を与えている意識作用は今・ここで起こっていることに対する「知覚」であるということができる。いわゆる体の五感が現実感を確信させるのは、このような知覚を直接身体や脳にもたらすためと考えられる。

一方今・ここにあるものでも現実であるという確信を与えないのは、反実仮想形の想像や本・映像などの記号表現である。これらは五感ではなく、その様子を自力で想像するという「解釈」を要さなけれなならない。

現象学における現実での体験世界・時間空間の基礎構造を夢での体験世界・時間空間の基礎構造を比較すると、興味深い差が数点発見できる。

①体験世界の仮定法未来・過去形がない(予期・想起したことが現れる)
夢の世界では、現実で「もし未来で…となったら,,,」と予期していたことが実際に知覚できる体験世界として現れることがある。個人的には予期していることそのものが夢になったことはあまりないので、ホントにそうなるか検証する必要がある。

また臨床心理士の間ではPTSD患者が心的外傷を負った事件・事故と全く同じ夢を見るという、「反復夢」のケースが知られている。個人的には中学時代のいじめっ子共が高校時代・大学時代によく夢に出たので、これは当たっていると思う。

②体験世界の反事実的条件(「もしも…であれば」と過去を想起したことが現れる)
夢の世界では、過去についての反実仮想が体験世界として現れることがある。反実仮想に当てはまるかは微妙だが、「“アークナイツ“のフロストノヴァがベルセルク最新刊の展開に影響を与えた」というおおよそあり得ない条件下の夢を見たことがある。

③記号表現・記号対象の区別がない(解釈したことがホントに起こる)
現実の体験世界では、「自分自身に今ここで起こっていること」と「本や映画の中で起こっていること」を区別することができる。それらの区別ができるのは、覚醒時の人間の脳は本そのものと本が指す内容(論理学的用語で記号表現と記号対象)を区別できるためである。

現実世界では、本そのものはインクのシミの乗ったただの紙束として「知覚」できる。これを知覚した上でその記号対象があると「解釈」すると、本を読む・映画をみるという行為が成立する。これらを知覚・解釈した上でインクのシミの乗ったただの紙束と見做すか・至上の聖典と見做すか、あるいはフェイクニュースかファクトチェックとみなすかはその解釈者に委ねられる。

夢の体験世界では、これらの記号表現が即座に記号対象となり、実際に起こっていることとして「解釈=体験」するようになると渡辺氏は分析する。これは予期・想起したことが現れる・反事実的条件が現れるという夢における時間・空間の基礎構造の違いによって起こる現象である。
渡辺氏は「記号表現が即座に記号対象となる」例として「夢の中でユングの論文を書いていたらフロイトとユングが討論する場面になり、次に自分自身がユングになった」という夢を挙げている。私の例だと、「自分はイモムシみたいにちっぽけな人間だな」と無意識に思っていたのかホントにイモムシなったりした。

個人的には、全ての夢が記号表現・記号対象の区別がなくなるわけではないと思う。例えば私がフロストリーフに叱られたのは(夢の中での)スマホの画面越しだったので、「アークナイツ」がスマホの中の物語であることを理解していた。また「ベルセルクの解説本に奇妙なことが書いてある」という夢でも漫画と体験世界の区別がついていた。もしこうした夢を深掘りできたら「生身のフロストリーフと口論する」「ベルセルクの世界に入り込んで解説本に書いてあることがホントに起こる」という夢の内容になってたかも知れない。このような現象は夢の体験世界で記号表現を深掘りしてしまうとホントに起こるのではないかと「予期」している。

現実・夢での自己・他者構造の違い

マッハの描いた「自画像」。自分の眼窩と鼻がつきまとい首・後頭部・背中を見ることは決してできないという非対称なイメージが「純粋な自画像」となる

現象学においては、自画像・他画像は全く異なる構造であると考える。例えば鏡や水面などを介さない「純粋な自画像」というものを考えると、全身が見える他画像とは違い純粋な自画像は眼窩・鼻がフレームのように付き纏い鎖骨の下の体の前面のみが見えるという非対称な像となる(マッハの自画像)。このように純粋な自画像を究極まで疑ってかかると、「自分は実は首がないのではないか」「なぜ自分だけがこのような自画像を持っている人間なのだろうか」「他人には、このような眼窩と鼻がつきまとうフレームや“視点”がないのではないか」という独我論に陥る。
渡辺氏の統計的調査によると、約6%の人がこのような自画像にまつわる独我論的体験をしている。

私は独我論的体験をしたことがないが、屁理屈をこねる人間なので(笑)「感情や意識というものは幻覚のようなもので、心や自我というのも「それが在る」と思い込ませる作用が脳と体にたまたま備わっているに過ぎない」という極端な唯物論・還元主義で物事をみることがある。個人的には、このような極端な唯物論・還元主義では夢や自画像にまつわる独我論的体験を説明できないと納得できなくなってきた。なので「夢を見る、あるいはそれを見る”何か”が在るということは1つの神秘である」と考えるようにしている。

このような自画像・他画像の対称性の破れを、現象学では「類的存在としての自己の自明性の破れ」「純粋自我と経験的自我の自己分裂」と呼ぶ。
夢の中では自分の主観視点に眼窩や鼻が付きまとうことはなく、このような自画像・他画像の対称性の破れは曖昧となり自分自身がカメラのような存在になったりイモムシになったりする。これは記号表現・記号対象の区別がないことによる作用のほか、純粋自己・経験的自己・他者に投影した自己の分裂が現れることによるものであると渡辺氏は考えている。


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