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追跡の革新: トレーサビリティで拓く新時代
はじめに
この物語は、EV(電気自動車)の普及が急速に進む二十一世紀中盤を舞台に、バッテリー製造装置の世界で第三位のシェアを誇る「日英テック」という企業が、さらなる高みを目指してトレーサビリティ改革に挑む姿を描いたフィクションです。物語を通じて、企業や組織における品質管理やサプライチェーンマネジメントの重要性、そしてデジタル改革の現場で生じる葛藤や実情が浮かび上がるよう構成しています。
読者の皆さまが本書を読み進めていただくと、トレーサビリティ強化によって何が得られるのか、組織改革を進める中でどのような問題が起こり得るのか、そしてそれらを解決していくために必要な視点や手段について、一通りの流れを掴むことができるでしょう。実務面でのノウハウそのものは、企業や業態、技術水準によって大きく異なります。しかし、登場人物の試行錯誤の過程や、組織内外の人間模様は、あらゆる業種や職種に通じる「リアルな現場の息遣い」を感じ取っていただけるのではないかと思います。
たとえば、日英テックの社員が「バーコード管理なんて面倒だ」「今まで通りのやり方が一番だ」と反発しながらも、新システムの導入によって少しずつ業務が最適化されていくプロセスは、デジタルトランスフォーメーション(DX)を推進しようとする多くの現場に共通する構図です。トレーサビリティという言葉は、いまや食品業界や医療機器、さらにはITサービスの領域でも使われるようになりました。本書では、あえてEVバッテリー製造装置という特定の業界を舞台に据えていますが、そこに描かれる組織的課題や改革のジレンマは、すべての分野に通じる普遍的なテーマと言えるでしょう。
物語の中には、理想と現実のはざまで葛藤する若手リーダー、老舗の意地と最先端技術を武器に迫りくる海外ライバル企業、さらに合弁会社設立をめぐり社内を揺るがす経営判断など、多彩なエピソードが登場します。これらはすべてフィクションであり、特定の企業や団体、人物をモデルにしたものではありません。本書で扱う技術仕様や数値データについても、物語をスムーズに進行させるための設定上の仮定が混在しています。そのため、実際の製造現場や商習慣、法的規制とは異なる記述が含まれる場合があります。これらは物語の演出上の要素であり、読者の皆さまには「ドラマとしての面白さ」と「ビジネスのリアリティ」を楽しみながら読み進めていただければ幸いです。
また、本書に記載される内容がすべての企業改革やプロジェクト運営に適用できるわけではないこと、日英テックが直面する課題解決策がいつでもどこでも有効とは限らないことにも、ご留意ください。本書はあくまでも一つのケーススタディであり、エンターテインメントとして創作されたものであることを強調しておきます。実際の経営判断や組織改革、システム導入などを検討される場合には、必ず自社の専門家や外部のコンサルタント、法務担当者などと充分に協議し、最新の情報を精査したうえで行動されることを推奨いたします。
それでもなお、物語に含まれる企業人たちの苦悩や情熱、そして変革への挑戦は、ビジネスに携わる方々はもちろんのこと、これから新しい一歩を踏み出そうとするすべての人にとって、大きな示唆や学びをもたらすはずです。次々に襲いかかる問題や理不尽と思えるような取引条件、予想もしなかったチャンスに翻弄されながらも、一歩ずつ未来を切り開く彼らの姿は、変化の激しい時代を生き抜く私たちに、勇気とヒントを与えてくれることでしょう。
それでは、これよりはじまる日英テックの物語を、お楽しみいただければ幸いです。本書が皆さまにとって、単なる「読物」を超えた新たな学びと発見の場となれば、このうえない喜びです。今後の企業運営やキャリア形成に、少しでもプラスとなるアイデアや視点をお持ち帰りいただけることを願いつつ、執筆を進めてまいります。
なお、この物語は完全なフィクションであり、登場する人物や団体は架空の存在です。実在するいかなる個人・組織とも関係がありません。技術用語や制度についても、あくまでも創作上の表現である場合があることをご了承ください。
以上の点を念頭に置いたうえで、日英テックがめざす「一兆円」という大いなる挑戦と、“TRACK ONE”プロジェクトがもたらす波紋の数々を、どうぞ最後までお楽しみください。
それでは、次はプロローグへと進みましょう。
プロローグ
西暦二〇二五年……。世界の自動車市場は大きな転換期を迎えていた。ガソリンエンジンを搭載した車両の販売数がわずかずつ減少に転じ、代わりにEV――すなわち電気自動車の需要が急増し始めたのである。環境意識の高まりや各国政府の補助金政策、さらにはバッテリー技術の進歩が、この変化を大きく後押ししていた。
その波をいち早く捉え、急成長を遂げているのが「日英テック株式会社」だった。日本とイギリスの合弁で創業されたこの企業は、EVバッテリーの製造装置分野において、世界第三位というシェアを誇る。自動車メーカーではないが、EVの心臓部とも言えるバッテリーを作り上げるための生産設備を提供しているのだ。その売上高は驚くほど伸び続け、二〇二五年中には五千億円の大台を突破する見込みとされていた。
しかし、急成長の裏側には不安要素も潜んでいた。膨張する需要に応えようとするあまり、かつては品質管理が追いつかず、大規模な不具合を出してしまった苦い経験がある。その損失補償は莫大なものとなり、社内の結束を一時的に揺るがすほどだった。特に、バッテリーセルに関わる部品が不良ロットだった場合の影響は計り知れない。もし市場に出回ったEVに重大な欠陥が生じれば、日英テックのみならず、関連企業すべてが巨額の賠償を請求される事態に陥る可能性がある。
この危機感を背景に、日英テックの社長・高嶺は、かねてより構想を練っていた「トレーサビリティ強化プロジェクト」を社内で本格的に始動させることを決断した。その名も“TRACK ONE”。すべての部品を流通段階から組み立て、出荷、修理に至るまで一元的に管理し、トラブル発生時の迅速な原因究明を実現しようという大規模な改革である。
プロジェクトの旗振り役には、製造統括部長・久米田が就いた。落ち着いた物腰と冷静な判断力で各部署をまとめ上げる久米田は、以前から「品質管理の強化なくして企業の未来はない」という持論を掲げていた人物でもある。とはいえ、膨大な量の部品を取り扱う現場にとって、バーコード管理や履歴データの電子化は、膨れ上がった工数をさらに増やしかねない大仕事となる。その難しさは久米田自身も重々承知していた。
そこで久米田が白羽の矢を立てたのが、若手ながら実務経験豊富なプロジェクトリーダー・筒井亮太だ。筒井は生産管理と品質管理の両方を歩んできた叩き上げで、デジタルツールの導入にも前向きな姿勢を持ち合わせている。現場が抱える困難と、企業が目指す理想の間をどうつなぐか――その葛藤は容易に想像できたが、筒井は「変わらなければ、日英テックも自分自身も生き残れない」という危機感を誰よりも強く抱いていた。
一方、社外からは新たな競合が虎視眈々とシェア拡大を狙っていた。ドイツを拠点とする老舗の製造装置メーカー「レーゲンコープ社」である。国際的にも評価の高いスマートファクトリー技術を武器に、世界規模の工場自動化やAI生産管理を推進していると言われる。日英テックの大口顧客に対しても積極的に売り込みをかけており、うかうかしていると“世界第三位”の座すら危うい。さらに、レアメタルを扱う特殊部品サプライヤーとの契約更新時期が迫っており、今後の調達戦略を誤れば急成長は一瞬にして下火になる恐れがある。
社長・高嶺は、全社員を前にした新年式典のスピーチでこう語った。
「われわれは二〇二七年に一兆円の売上を達成し、世界に誇るバッテリー製造装置メーカーとなる――これを信じる者だけが日英テックの仲間だ。過去の失敗を繰り返さないためにも、トレーサビリティ強化のプロジェクト“TRACK ONE”を断行する。これは単なる管理システムの刷新ではない。われわれの未来を賭けた改革だ」
その言葉に、ある者は胸を熱くし、ある者は不安を隠せなかった。生産現場では「そんな大変なことが本当にできるのか」と尻込みする声も聞こえる。ベテランのフィールドエンジニア・小野寺は「装置が止まらなければそれでいい」という昔気質の考え方を持ち、システム導入への懐疑が強かった。一方、若手エンジニアの柴田はスマホやタブレットでの作業に抵抗が少なく、むしろ新しい仕組みを楽しみにしている節がある。どちらが正しいわけではないが、現場との温度差が改革の足かせとなる可能性は高い。
そして、プロジェクトの成否を左右する大きな要素として控えているのがサプライヤー改革だ。調達部の片桐が音頭を取り、世界各地の部品供給元をどう巻き込むのか――そこには数多くの課題が山積している。部品のロット管理やバーコード貼付、納品データの即時共有など、企業同士の利害やコスト負担が絡む問題は一筋縄ではいかない。
やがて浮上する合弁会社の設立案は、日英テックがサプライヤーを「単なる下請け企業」ではなく「運命共同体」として取り込み、サプライチェーン全体の最適化を図る大胆な試みとなる。しかし、それには多額の投資とリスクが伴い、社内外で大きな波紋を呼ぶことになる。
このように、二〇二五年の幕開けとともに始動した“TRACK ONE”には、今後の日英テックの生き残りがかかっていた。世界規模のEVシフトがますます加速し、日々新技術が生まれる中で、企業としてどう進むべきか。誰もが正解を知らない未知の領域へと足を踏み入れる瞬間が、すぐそこまで迫っている。
しかし、歴史を振り返れば、大きな成功はいつだって大きなリスクとの隣り合わせだった。だからこそ、高嶺も久米田も、そして筒井も、立ち止まることを許されない。「一兆円を達成し、世界トップクラスのサプライチェーンを築く」という大いなる夢を実現するために、彼らは今日も新たな一歩を踏み出すのだ。
誰よりも先に未来を見据える者たちが、トレーサビリティという名の航路を切り開く。そこに待ち受ける試練と希望――すべてを抱え込むように、“TRACK ONE”はいま動き始めた。
第一章 新年度キックオフ
1-1. 決起集会での衝撃
日英テックの本社は、都心部から少し離れた湾岸エリアの開発区にある。広い敷地には研究開発棟や試作工場、そして二〇二〇年代に増築されたばかりのオフィスビルが立ち並ぶ。各ビルを結ぶ渡り廊下からは、ガントリークレーンが行き交う港の風景が望める。その先には停泊中の大型コンテナ船の姿もちらほら見えるほどだ。
新年度が始まって間もないある朝、オフィスビルの一階ロビーには、社員たちが大勢集まっていた。スーツ姿や作業着姿が入り混じり、雑多な雰囲気を醸し出している。例年の新年式典は一月中に実施されるが、今年は人事異動の関係で二月にずれ込み、さらにコロナ禍以降はオンラインで済ませることも多かった。そんな中、久しぶりにリアルで行われる式典とあって、社員たちもどこか浮足立っているようだった。
「今年こそ五千億円を越えましょうよ」
「いやいや、社長は二〇二七年に一兆円って言ってるんだ。俺たち、そこまで本当にいけるのかね」
ロビーの片隅で、営業部の若手が興奮気味に話している一方、ベテラン社員たちは落ち着いた様子でコーヒーをすすりながら談笑していた。柱には「EVバッテリー製造装置の世界ナンバーワンを目指そう!」という大きな横断幕が掲げられている。普段から「攻めの姿勢」を強調する日英テックらしい、意気込みの表れでもあった。
やがて司会のアナウンスが入り、社員たちはロビーに据えられた特設ステージへと目を向けた。ステージには社長の高嶺が立ち、隣には製造統括部長の久米田が控えている。若手リーダーの筒井や、調達部の片桐、ITインフラ部長の青柳など、各部署のキーパーソンたちも前列に並んでいた。
「皆さん、おはようございます」
高嶺の声が響くと、会場にいた百名以上の社員たちがピタリと静まり返った。日英テックは創業当初こそ小さな合弁会社だったが、今や数千人規模の従業員を擁する大企業へと成長している。各拠点を合わせればさらにその数は膨大だ。今日はその一部が本社に集まっているだけなのだが、ロビーは人の熱気であふれかえっていた。
「今年度も、われわれの挑戦は止まりません。二〇二七年に一兆円の売上を達成するという目標は、決して夢物語ではない。むしろ、実現可能なビジョンだと私は確信しています」
力強い言葉に、一瞬のどよめきが起きる。過去にも大胆な宣言をしてきた高嶺だが、社員の多くは「さすがに一兆円はハードルが高い」と感じている。それでも、彼が打ち出すビジョンがなければ、ここまでの成長はなかったという声も社内には根強い。
「そして、その目標を支えるのがトレーサビリティの強化――“TRACK ONE”プロジェクトです。われわれがこれから世界トップのバッテリー製造装置メーカーへと飛躍するためにも、品質と生産効率の向上は不可欠。過去に経験した大きな品質トラブルを繰り返さないためにも、一歩ずつ前進していきましょう」
拍手が上がる中、壇上の久米田が進み出る。背の高い痩身に落ち着いた声色で、じっくりと社員たちを見渡した。
「皆さんが一番心配されるのは、現場の負担が増えるのではないか、という点かもしれません。確かに、トレーサビリティを強化するには、バーコードやシリアル番号の管理、データの即時登録など、新しい作業工程が増えます。ですが、これらはすべて将来のリスクを回避し、顧客満足度を高めるための投資です。私たちは、その負担をできるだけ軽減できるよう、システムと手順を整備していきます。共に頑張っていきましょう」
久米田の言葉に、さらに大きな拍手が湧き起こった。しかし、拍手を送りながらも、心の底から納得している社員はどれほどいるだろうか。従来のやり方に慣れたベテランほど、モバイル端末を駆使して履歴を管理する手間を面倒に感じるのは明白だった。実際、ステージを見つめるベテランフィールドエンジニアの小野寺は、渋い表情で腕を組んでいる。
「装置を止めないのが俺たちの使命だろう……余計な作業ばかり増やしてどうするんだ」
小野寺はそう呟くと、隣に立つ若手の柴田が小声で返した。
「でも、小野寺さん。部品番号の履歴を正確に管理できれば、トラブルが起きた時にパーツをサッと交換できるじゃないですか」
「まずは壊さないのが第一だろ。お客さんのラインを止めるなんて最悪だ。そこは現場の経験や勘で対処するのが手っ取り早いんだよ」
そのやり取りを聞いた周囲の社員たちは、苦笑いを浮かべる者や、柴田を擁護するかのようにうなずく者など、反応はさまざまだった。全社を挙げてのプロジェクトとはいえ、気持ちの温度差が大きいことが、すでにここからもうかがえる。
やがて社長の高嶺がスピーチを締めくくると、司会が式典終了を宣言した。社員たちはそれぞれの持ち場へと戻り、ロビーには再び日常のざわめきが戻ってくる。
この新年度キックオフの場で、多くの社員は“TRACK ONE”の本格始動を肌で感じ取った。けれども、まだ誰も知らない。この改革が、想像以上の波乱と変革をもたらすことになるとは。
1-2. フィールドエンジニアの本音
式典の後、ロビー近くの応接室で小野寺と柴田が雑談していた。ふたりともフィールドエンジニアとして各地の現場を飛び回っている立場だが、世代も経験年数も大きく違う。
「柴田、お前はまだ若いからな。デジタルとか得意なんだろ」
そう言って小野寺はソファにどかりと腰を下ろした。柴田は遠慮がちにテーブルを挟んだ向かいに座り、姿勢を正す。
「苦手意識はないですよ。現場でタブレットを使うこと自体は、むしろ便利だと思う部分もありますし」
「俺なんかが若手だった頃は、そもそもスマホなんて存在しなかったんだからな。図面や仕様書は紙で管理して、トラブルがあれば現場で必死にメモを取って、頭とメモ帳で記録を作っていくしかなかった。それでも仕事は回ってたんだ。今になってあれこれシステムを導入しようっていうのは、どうにも肌に合わないんだよな」
小野寺の言い分にも一理あると柴田は感じていた。確かに、熟練者ならば経験の蓄積によって、機械の音色や微かな振動から故障の予兆を察知することさえある。一方で、データ化された情報は誰でも共有できる強みがある。
「でも、日英テック全体の規模が大きくなってきて、個々の職人技だけじゃ追いつかない領域に来ているのかもしれません。実際、トラブルが起きるときは起きるわけで、その履歴を誰でも見られるようにするっていうのは、組織としては強みになるんじゃないですか」
柴田の言葉に、小野寺は鼻を鳴らした。
「まあ、それは分かるよ。でもな……そもそも装置を止めないようにするのが俺たちの仕事だ。しょっちゅうタブレットで入力しなきゃならんなんて、イライラするぜ。客先は待ったなしなんだからな」
「そうですね。現場の声は大事です。プロジェクトリーダーの筒井さんにも、一度ちゃんと相談してみましょうか」
「ふん……まあ、筒井なら聞く耳はあるかもしれないな」
小野寺はそうつぶやきながらも、いまだ表情は硬い。柴田も、こうした価値観の違いを乗り越えるには時間がかかるだろうと感じていた。トレーサビリティ強化は大事だが、それによる現場作業の煩雑化はどう避けるか――その答えはまだ見つかっていない。
1-3. 製造統括部の戦略会議
同じ日の午後、製造統括部長の久米田は、製造部や品質保証部の各課長たちを集めて戦略会議を開いていた。会議室の壁には、プロジェクターで“TRACK ONE”の概要が映し出されている。そこには工場内部でのバーコード管理、部品のロット追跡の仕組み、フィールドエンジニアの作業記録の電子化など、多岐にわたる項目が列挙されていた。
「皆さん、ご存じの通り“TRACK ONE”は先週から本格始動していますが、まだ実際には部分導入の段階です。各部署でまずは試験的に運用し、問題点や改善案を洗い出してください」
久米田がそう切り出すと、品質保証部の課長がすかさず挙手した。
「バーコードの貼付作業について、現場から早くも『時間がかかる』という声が出ています。それに加え、工場では一日に何百、何千という部品が流れてきますから、バーコードリーダーが追いつかないケースもあるようです」
「分かりました。そこはITインフラ部の青柳部長とも相談して、ハードウェアの改善や配置数の増強などを検討してみましょう」
続けて、製造部の若い課長が手を上げる。
「修理部門との連携がまだうまくいっていません。フィールドエンジニアが故障原因を特定して部品交換した場合、その交換履歴がリアルタイムで工場側に共有される仕組みが確立していないようです」
「その点も重要ですね。トレーサビリティは工場だけで完結するものではありません。現地のエンジニアが何をして、どの部品を使い、どんな検証を行ったのかを即時に共有する必要があります。プロジェクトリーダーの筒井さんと話し合って、早急に連携体制を整えましょう」
次々と挙がる指摘に対して、久米田は真剣に耳を傾け、メモを取っていく。優先順位をつけ、各部署に実務的な落とし所を探らせる。その光景は、彼がどれほどこのプロジェクトを重視しているかを物語っていた。
「皆さん。これは他人事ではなく、日英テック全体の取り組みです。いずれ各拠点はもちろん、サプライヤーや協力会社も巻き込む必要がある。大変ですが、ここを乗り切らなければ、われわれの将来はありません」
久米田の言葉に、会議室は一瞬の沈黙に包まれた。やがてそれぞれが決意を新たにするかのようにうなずき合い、議論は再開された。こうして“TRACK ONE”は少しずつ形を整えていく。だが、あくまでまだ入り口にすぎない。
1-4. “TRACK ONE”の胎動
同じ頃、ITインフラ部長の青柳は、自室のデスクでパソコンを開きながら頭を悩ませていた。モニターには膨大な仕様書やシステム設計図が映し出され、矢印やコメントが入り乱れている。これまでにも社内システムを導入してきた青柳だが、今回の規模は段違いだった。
「一部品ごとに履歴を持たせて、どの装置に組み込まれ、どの工場から出荷され、どの顧客のラインに納められたか……さらに修理時の交換パーツまで追跡するなんて。まるで食品の産地情報に、顧客の使用履歴が合体したようなものだ」
青柳はそう独りごちると、大きく息を吐いた。トレーサビリティの概念自体は以前からあったが、ここまでのレベルでデータ連携を行うとなると、既存のシステム構成を根本から見直す必要がある。しかも、ユーザーの大半は工場やフィールドエンジニアであり、システムに詳しくない場合がほとんど。彼らがストレスなく使える仕組みを作り上げるには、相当の工夫が求められる。
「こりゃ、開発ベンダーとも緊密に連携しないと、納期が守れそうにないな……」
そう考えながら、青柳はサプライヤーが使うバーコード規格や、日英テック独自の部品番号体系にも目を走らせる。システム設計の巧拙が、そのまま現場の効率やモチベーションに直結することは、彼も痛感していた。
同時に、調達部の片桐にも大きな責任がのしかかっていた。メインとなるサプライヤーは国内外に存在し、それぞれが独自の管理方法を用いている。すべてを一括して「日英テック仕様」に合わせられるかどうか――それには当然、相手の事情やコスト負担も絡む。
「もしバーコードラベルを統一するだけでも、サプライヤー側が負担を強く感じるなら、協力を得られないかもしれない。そうなれば、肝心のトレーサビリティが機能しないじゃないか」
片桐は夕方のデスクで頬杖をつきながら、海外のサプライヤーへのメールドラフトを何度も書き直していた。日英テックの大事な取引先であるからこそ、強引な要求は難しい。だが、最低限の要件は満たしてもらわないと、プロジェクト自体が成立しなくなる。
こうした無数の問題が、同時並行で日英テックを取り巻いていた。形式上は「キックオフ」が済んだが、その実態はまさに手探りの連続である。リーダーの筒井も、各部署との調整に追われていた。
「みんな、頑張ってくれているけど、具体的な運用手順が固まっていないから混乱してるんだよな……」
筒井は自席のパソコン画面を見つめながら、そうつぶやいた。マニュアルを用意するにも、まだ確定していない仕様が多すぎる。結局、机上の空論ではなく、試行錯誤の中から最適解を探すしかない。
しかし、誰もが「もうトラブルを繰り返すわけにはいかない」という思いを共有している。創業以来、着実に成長を遂げてきた日英テックだが、過去の品質事故による巨額損失は社員たちの脳裏に刻まれているのだ。あの悪夢を再び味わいたくない――その恐怖が、彼らの足を前へと進める原動力ともなっていた。
こうして“TRACK ONE”は、まだ生まれたばかりのシステムながら、日英テックの未来を託された大きな存在として、少しずつ動き始める。部門ごとに見解の相違があり、ベテランと若手の価値観も衝突しているが、それでも進むしかない。一兆円という途方もない目標が、はるか先で彼らを待ち受けている。
これが、日英テックの新年度キックオフにおける最初の一歩。多くの難題を抱えながらも、彼らは歩みを止めようとしない。立ち止まれば、競合他社――ドイツのレーゲンコープ社がすぐ背後に迫っている。
果たして、この先にはどんな試練が待ち受けているのか。そして“TRACK ONE”は、日英テックの運命をどのように左右するのか――。
いよいよ、本格的な改革の幕が上がろうとしていた。
第二章 波紋と手応え
2-1. ライバル企業の影
翌週、プロジェクトリーダーの筒井亮太は、朝からメールの嵐に追われていた。社内の各部署からは“TRACK ONE”関連の問い合わせや提案が殺到している。加えて、国内外の顧客からも要望が入るため、メールを処理しているだけで午前が終わってしまいそうな勢いだった。
「筒井さん、またレーゲンコープ社の件で情報が入りました」
バタバタと走り込んできたのは、製造統括部の若手社員・宮下だった。早口でまくし立てるように報告する。
「レーゲンコープ社がドイツ国内のサプライヤー数社を巻き込んで、スマートファクトリーの実証実験を始めたそうです。AIを活用して、部品調達から組み立て、在庫管理まで一元管理する仕組みを構築中だとか」
筒井は一瞬、息をのんだ。ドイツの老舗企業であるレーゲンコープ社は、近年ではIoTやAIを駆使した先進的な生産システムの開発で世界をリードしている。日英テックが“TRACK ONE”を推進する理由の一つに、こうした競合の動向があるのは周知の事実だった。
「それに、新型バッテリーセルの設計にも手を出すらしいです。彼らは装置だけでなく、バッテリーそのものに強い関心を持っているようで……」
宮下の口から飛び出す言葉が次々と筒井の胸を突き刺すように響く。バッテリーセルの設計や開発にまで手を伸ばすということは、製造装置メーカーの枠を越え、総合的なEV関連ビジネスを狙っている可能性もある。
「分かった。詳しい資料を後で送ってくれ。こっちでも情報を整理して、久米田部長に報告しよう」
「はい。急ぎまとめます」
宮下はそう言って再び走り去っていく。筒井はパソコンに向き直り、レーゲンコープ社についての最新ニュースを検索した。すぐに複数の記事がヒットする。そこには「AI搭載のバッテリーセル製造ラインを開発」「独自のトレーサビリティ技術で不良率を大幅に低減」など、鮮やかな見出しが並んでいた。
「やっぱり一筋縄ではいかない相手だな……」
画面を眺めながら、筒井は自分たちの日英テックがどう対抗できるのかを思案する。国内外の顧客は、より先進的で高品質な装置を求めている。新たな技術を手中に収めた企業が、そのシェアを一気に拡大する可能性は高い。
“TRACK ONE”によるトレーサビリティ強化だけでは不十分だ。スマートファクトリー化やAI技術との連携も見据えなければ、レーゲンコープ社には太刀打ちできないだろう――。そう考えると、日英テックがすべきことはまだまだ山のようにあるように思えた。
2-2. 大口顧客のクレーム
その日の午後、筒井は製造統括部長・久米田から緊急で呼び出しを受けた。会議室に入ると、調達部の片桐も同席している。二人の表情は険しく、ただならぬ空気が漂っていた。
「筒井、すぐに説明したいことがある。実は、我々の大口顧客であるN国自動車からクレームが届いた」
久米田が切り出すと、筒井は思わず息を詰めた。N国自動車は国内最大級の自動車メーカーであり、EV分野にも積極的に投資している。日英テックにとっては欠かせないビジネスパートナーであり、その取引額は年間でもかなりの比率を占める。
「何があったんですか?」
「どうやら納品したバッテリー製造装置の一部に、作動不良が疑われる部品が使われていたらしい。まだ故障まではいっていないが、検査工程でいくつかエラーが発生したと」
そう答えたのは片桐だった。彼の手元にはN国自動車とのメールのプリントアウトがある。何枚にもわたって詳しい不具合状況や疑念点が書き連ねられている。
「幸い、直ちに重大事故につながるほどの問題ではないらしい。しかし、このタイミングでクレームが出てきたということは、今後の受注にも影響しかねない。N国自動車は定期的に新しい設備を導入してくれる大口顧客だ。下手をすれば、レーゲンコープ社に取られてしまうかもしれないぞ」
久米田の声に、筒井は一瞬肩を強張らせた。まさに、最悪のシナリオが頭をよぎる。それを回避するためには、今回の不具合の原因を迅速に突き止め、解決策を示す必要がある。
「原因究明には、やはり“TRACK ONE”の仕組みが大いに役立つはずです。もし部品のロットや履歴を詳しく調べられれば、どのラインで組み立てられ、いつ出荷されたものかがすぐに分かるかもしれません」
「しかし、現段階ではシステムが完全に稼働していない。まだバーコード管理やロット追跡も一部導入の状態だろう?」
久米田の言葉に、筒井はうなずくほかない。完璧に導入されていれば、すぐにでもデータから手がかりを得られただろう。だが、今はまだテスト運用の段階で、しかもサプライヤーの協力体制も万全とは言いがたい。
「それでも、できる限り情報を集めてみます。工場側と調達部門、そして修理対応の記録にも目を通して、早急に原因を突き止める方法を検討します」
「頼むぞ、筒井。これは日英テックにとっても試金石だ。『どうせ口先だけでトレーサビリティとやらを言っているんだろう』と疑われては、一兆円どころの話じゃなくなる」
久米田の声色には、焦燥と期待が入り混じっていた。大口顧客との信頼関係を守るため、早急にアクションを起こさねばならない。その要として“TRACK ONE”が機能することを、彼も心から願っているのだ。
2-3. 現場最前線の目
N国自動車のクレームを受け、筒井は早速、現場対応を進めることにした。そこにはフィールドエンジニアとしての豊富な経験が生きる。まずは当該装置が納品された工場へ足を運び、実際の状況を確認するのが手っ取り早いからだ。
出張当日の朝、会社のワゴン車でN国自動車の工場へ向かう道中、筒井の隣にはベテランの小野寺が座っていた。彼は普段、口数が少なく気難しいタイプだが、今回は「旧来のやり方ではもう限界だ」と思う節があるのか、自ら同行を申し出たのだ。
「まあ、現場でどんな不具合が出ているかは、実際に見てみないと分からんからな。筒井、現場の連中は気が荒いかもしれないぞ。N国自動車の下請けラインは納期に追われて、いつもピリピリしてるからな」
「小野寺さんも、何度かここには来てるんですよね」
「そりゃあ、何度も顔を出してるさ。ここのラインを止めちまったら、下手すると数億円単位の損失が出る。俺たちが出張って行くときは、いつだって火急の事態ってわけだ」
そんなやり取りをしながら工場へ到着すると、ライン責任者の若い男性が出迎えてくれた。ヘルメット姿で、安全通路の端に立っている。
「お忙しいところありがとうございます。エラーが出たのは、このバッテリーセル封止用のロボットアームなんですが……」
そう言って案内された製造ラインは、ガラス張りのカバーの中を無数のロボットが稼働し、バッテリーセルを次々と封止している。目にも止まらぬ速さでセルが供給され、異常なく流れているように見えるが、内部ログでは断続的に誤差値が増えているらしい。
「一度ラインを止めてもらえるか?」
小野寺が尋ねると、責任者の男性は申し訳なさそうに頭を下げた。
「実は、今しばらくラインを止めることができなくて……もし止めるとなれば、上層部の許可が必要なんです」
ラインを止めることは、大口の工場では容易ではない。特に生産計画がびっしり詰まっているときは尚更だ。小野寺はそれを聞き、渋い顔をしながらも仕方ないという様子でうなずいた。
「なら、一旦外から監視しながら、データログを確認しよう。筒井、例のタブレットあるか?」
「はい、これです。事前に社内ネットワークから工場のライン情報にアクセスできるよう設定してきました」
筒井がタブレットを起動し、社内システムと接続すると、今回エラーが起きている部品のシリアルナンバーや稼働状況の履歴が画面に表示された。まだ“TRACK ONE”は本格運用前の状態だが、一部のデータは試験的に登録しているため、最低限の情報が得られるようになっている。
「ここを見る限り、同じサプライヤーの部品を使った装置のうち、何台かはもう交換済みになってるな……。小野寺さん、そっちのエンジニア仲間で交換作業をした人、知り合いはいませんか?」
「そうだな、もしかしたら柴田が担当した現場かもしれん。奴ならスマホで作業ログを取ってるかもな。後で連絡してみるよ」
そのやり取りを聞いていたライン責任者が目を丸くした。
「へえ、そんなふうにエンジニアの作業ログまで共有するんですか? それは便利ですね。うちも早く導入してくれればいいのに」
「今まさに導入中なんですよ。まだ試験運用段階ですが、将来的にはこうした不具合が起きた際に即座に原因を特定できるようになるはずです」
筒井がそう答えると、責任者は期待のまなざしを向けた。しかし、その期待を裏切らないためには、今回の問題を迅速に解決しなければならない。
とりあえずロボットアームの動作を注意深く観察しながらログを解析してみると、封止用のシール材を吸い上げる吸着パッドの取り付け精度が微妙にズレている可能性が浮かび上がった。パッド自体の材質や形状は一見正常に見えるが、製造ロットの違いで微妙な誤差が生じているのかもしれない。
「まずはサプライヤーが納めたパッドのロット情報を詳細に追ってみるしかないな」小野寺の言葉に、筒井はうなずく。
「もし運が良ければ、納品ロットのバーコード情報から該当部品を特定できるかも。今、本社の調達部に連絡してみます」
そう言って筒井はスマホを取り出すと、すぐさま片桐に電話を入れた。まだ完全には整備されていない管理データだが、試験導入でバーコードが貼られたロットがあるならば、その情報を手掛かりに原因究明が進む可能性がある。
2-4. はじめての手応え
ほどなくして、片桐から連絡が入った。どうやら、問題の吸着パッドを納めているサプライヤーが、バーコード管理を部分的に導入していたらしい。納品時に貼り付けられたバーコード情報の中に、製造ロットや生産ラインの番号が含まれているという。
「筒井さん、これがそのロット情報です。バーコードの番号は……ここに載ってます。今メールで送りましたよ」
スマホ画面に届いたメールを確認した筒井は、すぐにタブレットの“TRACK ONE”画面に入力してみる。すると、該当ロットがどの時点で納品され、どの工場で使われ、何台の装置に取り付けられているかが簡易的に表示された。まだ試験運用中のため表示できる情報は限られていたが、必要最低限の手がかりとしては十分だった。
「小野寺さん、見てください。ここで使われたロットと、あちらの工場で使われたロットで、素材の配合比率が違うみたいですよ。サプライヤーがメーカーを切り替えたか、製造ラインを変えたかのどちらかかもしれませんね」
「なるほどな……。その差が吸着パッドの微妙な柔軟性や寸法誤差につながっているのかも。そりゃあ、同じ形に見えても実際は別物ってことがある」
実際、このレベルの違いは従来の紙の管理や現場の勘だけでは見落としてしまう可能性が高い。ところが、トレーサビリティの仕組みが少しでも機能していれば、情報をさかのぼって特定が可能になる。
「こうしてみると、トレーサビリティってやつも、なかなか捨てたもんじゃないな」
小野寺が低くつぶやいた。
「ええ。本格運用にはまだまだ課題が山積してますけど……それでも、原因を絞り込むスピードは明らかに上がってますよ。以前ならサプライヤーに電話して、『この時期に作った部品ってどんなロット?』って、何日も待たなきゃ分からなかったことですし」
小野寺は頷き、ロボットアームに目を戻した。トレーサビリティの恩恵を、初めて実感した瞬間かもしれない――そう思いながら、どこか複雑な表情を浮かべている。
「まあ、便利になったのは認めるけど、まだこの工場がラインを止めてくれないと、本格的な修正はできそうにないな。とにかく、サプライヤーと材料メーカーに連絡して、ロットごとの仕様を再確認してもらうところからか」
「そうですね。あとでN国自動車と相談して、可能な限りラインを止める時間帯を確保してもらいましょう」
こうして、現場レベルでのトラブル対処が一つの進展を見せた。まだ問題は完全に解決していないが、部品ロットを特定できたことで、一歩前進したのは間違いない。何より、“TRACK ONE”の試験運用データが役立ったという事実が、筒井や小野寺を含めた関係者たちに小さな確信を与えた。
その日の夕方、工場を後にした筒井と小野寺は、帰路の車中で話し合った。
「やっぱり、変化ってのは必要なんだろうな。俺が昔から言ってる『装置を止めない』ってのは今でも大事だが……デジタルツールを活用して、“止まる前に原因を見つける”って方向に持っていければ、それに越したことはない」
「はい。僕も、こうして実際に現場を回りながら必要性を感じると、モチベーションが上がります。まだまだ課題だらけですけど、これから“TRACK ONE”が本格稼働すれば、もっとスムーズに原因追及できるようになると思います」
窓の外は夕暮れで、工場地帯の高い煙突がオレンジ色に染まっていた。ベテランと若手の二人は、それぞれの視点から今回の手応えを噛みしめながら、次にやるべきことを頭の中で整理していた。
2-5. 社内報告と次なる課題
翌朝、日英テック本社では、筒井がN国自動車の不具合対応について簡単な報告会を行っていた。製造統括部長の久米田、調達部の片桐、ITインフラ部長の青柳など、主要メンバーが顔をそろえる。
「今回のケースでは、サプライヤー側のロット情報が部分的にバーコード管理されていたおかげで、原因をある程度絞り込むことができました。もし全サプライヤーが同様のシステムを導入していれば、さらに早く原因究明が可能になったはずです」
筒井の言葉に、片桐は神妙な面持ちでうなずいた。
「そうですね。今回の件をサプライヤーに共有すれば、バーコード管理やトレーサビリティの必要性を理解してもらいやすくなるかもしれません。ただし、全社的に仕様を統一するにはコストもかかるので、うまい落としどころを探る必要があります」
青柳はITの立場から口を開く。
「工場のデータや現場のエンジニアの修理記録が“TRACK ONE”上で連動すれば、今回はもっとスムーズに動けたと思います。まだ試験導入なので部分的にしかデータが取れていませんが、本格導入に向けて急ぎ開発を進めたいところです」
「頼むよ、青柳さん」
筒井の視線を受け止めながら、青柳は苦笑いした。
「とりあえず、ベンダーとの打ち合わせは進んでいます。次のステップでは、工場とフィールドエンジニアのデータをリアルタイムで同期するモジュールを優先的に開発する予定です」
久米田は皆の発言を聞き終えると、全体をまとめるように言葉を投げかけた。
「今回のトラブルは、逆に大きなチャンスになるかもしれません。N国自動車にも“TRACK ONE”の有用性を認識してもらえる可能性がある。われわれがこのプロジェクトを実用段階まで着実に進めれば、顧客の信頼度をさらに高められる」
その言葉に一同はうなずく。だが同時に、課題も山ほどあることを痛感していた。サプライヤーとの契約条件やバーコード規格の統一、システム開発の予算と納期――いずれも簡単に解決できる問題ではない。
「何より、一兆円を目指すと言っても、競合はどんどん先を行っている。レーゲンコープ社の最新情報はどうなっている?」
久米田の問いに、筒井がメモを確認する。
「噂によると、彼らはドイツ国内の工場だけでなく、アジア圏にも新たな生産拠点を検討しているようです。そこではAIによる自動最適化が進んでいて、バーコード管理以上に高度なトレーサビリティを実現しようとしているとか……」
「まさに油断ならないな。だが、我々は自分たちの道を行くしかない。皆で協力して、“TRACK ONE”を成功させよう」
久米田が強い決意を込めて言い放つと、会議室の空気が少し引き締まった。これが、日英テックが歩むべき改革の道。まだゴールは遠いが、徐々に手応えも出てきている。今回のクレーム対応で感じた「トレーサビリティの威力」を、今後どれだけ確実に展開していけるかが勝負の鍵を握っている。
こうして、社内には小さな達成感と大きな課題が同時に広がっていった。誰もが実感し始める――これは長い道のりのほんの序盤に過ぎないのだと。
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