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不確か散文日記
オスカーは近いうちに死ぬ。
「うるさい! 私はもうすぐ死ぬ!死ぬと言われたんだ!だから、ほっといてくれ!」
「ほう、そうかそうか」
老人は言った。
その声はとても落ち着いており、死のうとしている人間を目の当たりにしているとは思えないほど穏やかだった。
そして、老人は笑いながら続けてこう言った。
「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだな」
ストーリーで学ぶハイデガー哲学
彼だけじゃない。我々の致死率は100%である。
死にたいとき、こういう確約された死は、とてつもなく幸福に見える。その安心が、わたしは欲しい。
仕事は結局続かない。この10年で、何回転職しただろう。12回?もっと?
人間関係を築けば途端に距離感が分からなくなる。何回リセットしてきた?
人に助けてと言うことの罪悪感に耐えられない。
怒られると、存在を否定された気分になる。
あーまたダメでした。転生しよう。
くりかえし生まれ変わり
似たりよったりのストーリー
1000回やっても失敗のラブストーリー
あーあーまたダメ?どこへ向かうのだろう?
そうしてわたしはまた逃げてしまう。新しく、やり直したくなる。人間関係、仕事、恋愛、住む場所、SNSに電話番号、ときには国境を越え、名前まで変える。吾妻ひでおの『失踪日記』を簡単に理解できてしまう。逃げても逃げても自分はついてくるというのに、また逃げる。ネルヴァルも、ジットもそうだったって?だけどわたしは天才じゃない。
疲れた。
これを死ぬまでくりかえし?
もう繰り返したくない。
それにはやっぱり死ぬしかない?
頭はぐちゃぐちゃで、やるべきことの優先順位は分からないまま時が流れる。
いつの間にか、睡眠薬だけで3種類。「最後の切り札」と名高いサイレースを飲んだあとの記憶のない夜明け。手術や麻酔前に使われる薬剤である。
眠る能力も、食欲を感じる能力も、薬を辞めずに服用する能力も、洗濯をこなす能力もゴミを分別する能力さえわたしには無いのに、それなのに。
わたしは普通に見えるのだ。
誰の前でもニコニコする。声は明るい。丁寧な敬語を遣う。話し方は優しいらしい。
十代 ドヤ顔で悟った人
二十代 恥に気づいた人
三十代 身の丈知った人
そのどれもが全部 同じ人
…
こんでぃしょん 躁鬱の乱高下で
仕事なんかしたくない。どうせまた逃げる。お金になんか興味ない。だけど地獄では、存在するだけで、死ぬ手続きにさえ、お金が必要なのである。
食事は、苦しい。体型維持と、仕事に必要な体力をつけることだけがその目的である。科学的に、わたしの人体は母から生まれてしまったが、母はそのなかにわたしがいることに気づかなかった。わたしは人体に閉じ込められたまま演技して、そのまま大人になってしまった。
睡眠は、苦しい。この睡眠薬で今夜はどれくらい眠れるだろうか。これが効かなくなったらどうするの?睡眠薬を飲み始めて何年?10年くらい?気絶したように眠ったあと外から差す絶望の光。
そんな人生。精神力は、もう残ってない。のに人体はここにある。
未来になんか、興味ない。わたしはこの繰り返しを、早く終わらせたい。
「ピンスヴァンガーはこんな面白い観察をしています。《躁病者の文章には主文と副文に分節された従属文が少なく、それぞれの文章が並列的に並べられていて、それらの間の論理的連関は聞いたり読んだりする人の恣意に委ねられている。文章に活気を与えるはずの動詞は減少し、残っている動詞もそのほとんどが現在形で、過去形は少なく、未来形はもっと少なくなっている。このことから、躁病者がほとんど現在だけに生きており、いくらかは過去にも生きているものの、未来に向かっては生きていないことがわかる》というのです。」
自分の文章すぎて草。
【余談】
ピノキオピーさん躁鬱じゃね?って歌詞多くて昔から好き。頭に靄がかかっていて本がイマイチ頭に入ってこないので音を遮断するため永遠にラジオと音楽を流している。