植村直己「青春を山に賭けて」を読んで。挑戦と無謀の境界線を見極める
初版 1977年(新装版2008年) 文春文庫
植村/直己
1941(昭和16)年、兵庫県生まれ。明治大学卒。日本人初のエベレスト登頂をふくめ、世界で初めて五大陸最高峰に登頂する。76年に2年がかりの北極圏1万2000キロの単独犬ぞり旅を達成。78年には犬ぞりでの北極点単独行とグリーンランド縦断に成功。その偉業に対し菊池寛賞、英国のバラー・イン・スポーツ賞が贈られた。南極大陸犬ぞり横断を夢にしたまま、84年2月、北米マッキンリーに冬期単独登頂後、消息を絶った。
内容
家の手伝いからは逃げ、学校ではイタズラばかりしていた少年は、大学へ進んで、美しい山々と出会った。
大学時代、ドングリとあだ名されていた著者は、百ドルだけを手に日本を脱出し、さまざまな苦難のすえ、夢の五大陸最高峰登頂を達成する。
アマゾンの60日間イカダ下りもふくむ、そのケタはずれな世界放浪記の全貌。
(アマゾン商品紹介より)
言わずと知れた冒険家、植村直己さんのノンフィクションです。
本書はその中でも前半の、まさに氏の青春期の冒険を綴ったもの。
いやいや、意外にも文才があって面白いです。
意外というのは失礼か・・・
結局、人間そのものの面白さなんだろうけど、
「本当にこれは自慢できる話ではないのだ。もしもこの話に、みなさんが、崇高なアルピニズムの真髄といったものを求めているとしたら、先にあやまってしまうが、私は失格に決まっている」
と、謙虚な雰囲気の冒頭から引き込まれるんだけど、読み進めていくとなかなか半端ない生命力と気概の持ち主であることが判明してきます。
大学の山岳部になんとなく覗きに行ったのが始まりで、
あとは、強引に勧誘され、3日後には北アルプスの山行に連れていかれるという。
あの映画「八甲田山」バリの、昭和の体育会系の強行山行の日々。
そんな中でも、元々農家の出身で体力に自力のあった植村さんは頭角をあらわしていきます。
そしていつしか日本の山では物足りなくなってきて、北欧の山を夢見るようになり、そのためには物価の高いアメリカで働くのが近道だと思い立ち、
大学卒業と同時に、まったく英語もできないのに百ドルと観光ビザでアメリカに渡るという。
もうね、精神論だけで感化されてたら、命がいくつあっても足りないという所業の数々が描かれていきます。
ロサンゼルスに渡り、紆余曲折あって、カルフォルニアの果樹園で果物もぎのバイトに落ち着き、不法入国のメキシコ人なんかと一緒に働くんだけど、毎日蜂に4~5回刺されながらも夢中で果物とったとか。
強制送還されそうになった時も、ギリギリの幸運で逃れてそのまま欧州行きの船に乗り込んで、欧州に渡ったはいいけどまた文無しになって、
スキーもできないのにスキーができると嘘ついてスキー場の仕事にありついたり。
冬のモンブランに単独で踏み入って、あっさりクレパスにおこっちて。
たまたま運よく背中のザックが引っかかって命拾いしたり。
アマゾンくだりでは、鍋もなんも濁流におっこどして。
濁った茶色い川の水をそのまま飲んだり。
時折盛り込まれる旅先で出会う女性との行きずりのロマンス。
マサイ族と出会った時の意外な毒舌。
しかしそこから打ち解けていく様子の逞しさと順応性・・・。
まさに冒頭の言葉どおり、崇高なアルピニズムも
己との闘い的哲学論もほとんどありません。
幸運と人の縁と自の生命力の強さで、紙一重のところを綱渡りの如く駆け抜ける、世界を股にかけた青春珍道中譚の様相なのが面白いです。
しかし、終盤の、厳冬期グランドジョラス北壁直登の場面では
そこは世界のウエムラという、確かな技術に裏打ちされた、崇高なアルピニズムと精神力を垣間見せてくれます。
「ツルムの頭の下のビバーク地は、雪をけずってつくったが、壁からさざ波のようにスノーシャワーが、われわれの真上から落下してきた。狭いテラスは雪に埋まり、冷え込む寒気の中で一晩中、除雪作業をくりかえし、ねむることもできない厳しい夜だった。雪まみれになり、羽根服から毛の下着まで濡れ、羽根服の外側は凍りついた。この状況では、明日はどうなるか分からない身だ。それでもみんな元気で、悲壮感というものはみられなかった。自分に敗け、悲壮感をもつようなことは、クライマーには絶対に許されないことなのだ。どんな困難も冷静にきりぬけられる自信がなくてはならないのだ」
このグランドジョラス北壁から生還した植村さんはこんなことを言っています。
「いくら私が冒険が好きだからといっても、経験と技術もなくて、また生還の可能性もない冒険に挑むことは、それは冒険でも、勇敢でもないのだ。無謀というべきものなのだ。それがどんなに素晴らしい挑戦であったにしても、生命を犠牲にしては意味がない」
この言葉は前半の、百ドルを手にアメリカに渡った植村さんの行動と矛盾しているようにも思えますが・・・
まあ結局、この挑戦と無謀のボーダーライン、ギリギリを模索して生きて、ほんのちょっと無謀側にはみ出しちゃってた人なのかもしれません。
だからこそ、挑戦側に、まだまだタップり余白を残した安全地帯にいながら、ちょっと雲行きが怪しくなっただけで、悲壮感あらわにする、
われわれ凡人の心を惹きつけてやまないのでしょう。