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自分で自分を受け入れないと始まらないこと~多様性への違和感

『多様性について』


ずっと、この言葉の中身の曖昧さに、もやもやしていました。

以前のつぶやき。

ずっと思っていました。



「多様性」っていう言葉が、世の中に浸透し続ける中で、

救われている人たちは本当にいるのかな?

誰かが大声で「多様性を認める世界にしようじゃないか」

と、叫んでいる裏で、誰もが持ってる表裏一体のマイノリティは、余計に辛くなったり、鼻白んだりしてる気がする…。


その言葉の本質は、結局二極化を推奨している結果になっていない?



と、疑問を抱かずにはいられない言葉でした。
 


そんな中で、出会った、
『多様性』の真理に少しだけ近づいた気がした言葉を紹介します。


多様性の字義は「互いに異なる多くの人や物集まり」。
性別、人種、国籍、年齢など表層的なもの、
価値観、経験など深層的なもの、
それらは「異なる」の1つの指標です。
つまり、本来の多様性とは、
一人ひとりの「異なり」に目を向け、
そこにあるものをそただ認めること。

自分を受け入れるスヌーピー「はじめに」

ただ、認めること。

誰に理解されなくても、それはそこにあるだけ。
誰かの、理解者です、受け入れる側です、という態度が、一番の違和感だったんだ。

『誰が何をどう思うかは、誰にも操れない』(朝井リョウ「正欲」より)


禅語 『両忘(りょうぼう)』

両忘とは、善悪、美醜、是非、有無、.などの両者の対立を忘れ去ること。

二元的な対立の上にあるのは、相対的対立でしかなく、
両方へのこだわりから抜け出すと、気持ちはラクになる。

多様性を認めるために、自分の物差しは、自分にとって都合のいい目盛りでできていることを自覚する。


多様性を認めるということは、他人の姿は自分の姿、自分自身を自分自身で認めることからしか始まらないことを知りました。


ありがとうございました。
合掌。
@スター@











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