忘れることは… 歌集『ビギナーズラック』によせて
北白川を南から北へ、音楽を聴きながら琵琶湖疏水のそばを歩いていくと、ニ〇分もすれば北大路通へ出る。北大路通と東大路通の交差点にはミスタードーナツがあって、僕にはそこでカフェオレを飲みながら本を読む習慣があった。試験前の勉強もそこでする程度にはよく通っていた。その近くには新刊書店と新古書店があって、そこで買った本や漫画をひととおり読んだあとにカフェオレをおかわりしてから短歌をつくるのが、僕にとっての歌作の原風景のような時間だった。そこのミスタードーナツは二〇一九年の冬に、コミックショックという新古書店は二〇ニ〇年初頭に閉店してしまったらしい。(阿波野巧也『ビギナーズラック』あとがきp168、左右社)
忘れることはなくすことだと思う。
記憶なんて一度忘れてしまえば、なかったことになるも同然だ、と感じてしまう。
たまに、京都に住んでいたころの友達のあいだで、嘆きとともに盛り上がる話題がある。TwitterのTLに、【悲報】なんて文字と一緒に、「京都のあのお店が閉店するって!」というツイートが流れてくるのだ。
京大の近くのブーガルーカフェ。出町柳駅のTSUTAYA。東大路通りから少し道に入ったところのファミリーマート。三条のAVOCADOが入っていたテナントのお店。それから高野のミスタードーナツ。
たぶん大学時代に京都に住んだことのない人からすると、「よくあるチェーン店の閉店がなんでそんなに話題に……」と訝しがられるかと思うのだけど、ほんとうに話題になるのだ。友人から「ねえねえブーガル―カフェ閉店って聞いた~?」とLINEがわざわざやってくるくらい。
でも私たちにとっては、ものすごく主観的に大切なことなんだと思う。京都で大学生活を過ごした人は、たいてい、その学生街には残らずに全国へ散らばる。東京の学生さんはわりとそのまま東京に残る人もいるんだろうけど、京都の学生がそのまま京都にいる割合はけっこう低い。みんな、自分の学生時代に過ごした町は、そのまま自分の学生時代の記憶とともに、そのままのかたちで永久保存されるものだと思い込んでいる。
だけど現実は厳しい。当たり前だけど、私たちはたまに思い出話をするとき以外は京都での学生時代のことなんて忘れて、そしてそれにともなって京都の街も資本主義原理にのっとって形を変える。
せめて町がそのまま保存されてればいいのに(だって京都なんて100年後も同じ風景してそうなんだもの)、町の風景すら変わってゆくもんだから、私たちは自分たちの記憶がそもそも消えてゆくことを棚に上げて嘆く。「えっ、あの思い出のTSUTAYA、なくなっちゃうんだあ」と。
だけど最近、京大出身の歌人である阿波野巧也さんの歌集『ビギナーズラック』を読んだら、ふわっと泣きそうになってしまった。ていうかちょっと泣いた。――私が京都で見た風景が、その感情が、まるっと短歌というかたちになって凍結してあったから。
ここにある風景、ぜんぶ、知ってる。と忘れかけていた京都の学生時代の風景が、ちょっとよみがえってきてびっくりした。
カロリーの摂取にメロンパンはいい となりでケンカしている男女
実験がうまくいかない ホイールのまぶしい春のサイクルショップ
目が覚めて大雨な夜 その雨を聴いてたはずが明るんでいた
作者の阿波野さん(注1)は、1993年生まれの京大短歌会出身。ってつまりは私の一つ上で京大生だったのだから、そりゃ大学で見てる風景は同じだわ……というツッコミは入れたくなる。しかしそれにしたって、たとえば往年の「京大生」の物語――森見登美彦作品にもワンダーウォールにも――どこにも描かれてこなかった京都の学生生活の風景が、こんなふうに保存されてるなんて、びっくりする。短歌ってこうやって使うんだ、と少し驚いてしまうくらい。
私たちの京都は祇園とか八坂神社とか京都タワーとかそんなインスタ映えする場所にあるんじゃない、大垣書店や自転車撤去の音やフレスコや鴨川にあったんだと知った。
ほんとうのことはなんにも言わないでぼくたちは深夜のなか卯なう
見てきたことを話してほしい生まれ育った町でのイオンモールのことを
変な話、『ビギナーズラック』の短歌に、即物的に京都の地名が使われているわけではない。木屋町、とか、京都駅、とか。だけど、私の知ってる京都は、たしかに、なか卯とかファミリーマートとかTSUTAYAとか、あるいは、家の窓から見える風景とか友達の家で見た風景とか、そういうものである。ほんとに、てきとうにTwitterしたりぼんやりWikipediaみたりだらだら友達と喋ったりコンビニで研究の合間の息抜きを買ったり、そういうものが大学生活だったと思う。
その風景がぜんぶ短歌になっていて、すごい、とちょっとびっくりする。
食べかけのままでテレビもついたままでWikipedia見ている春の夜
憂鬱はセブンイレブンにやって来てホットスナック買って食べます
ぶっちゃけ、京都での学生生活だけじゃなくて、人生全般において、私はけっこういつもこわい。
私が人生でほんとうに大切だと思うもの――たとえばそこで見た景色や、会話、得た感情、空気そのもの――は、どうしたって自分のなかで消費されてゆく。過ごした時間をぜんぶアーカイブ化することはできない。忘れたくないなと思っても、記憶は忘れ去られてゆく。ていうか現に私が忘れる。なかったことになってゆく。
だけど、だからこそ書かなきゃだめだ、といつも思う。やっぱり言葉にして、ちょっとでも残しとかなきゃだめだ。だって全部忘れてしまう。
そんで、今はもうないミスタードーナツのことを、覚えておかなきゃいけない。
歌集の最後のほうで、主人公(と言っていいのかな? 短歌の作法があまりよくわかっていないけれど、短歌の語り手)の好きな人は、京都を去ることになる。
もうこの感情に至るまで既視感があってちょっと泣けて来るけれど、まあ、そうやってセンチメンタルって資本主義社会では揶揄されるものを抱きかかえながら、私たちは、明日も忘れ続けるんだと思う。
きみと過ごしたどの季節にも鴨川があり鴨川をはなれてしまう
東京のきみはそろそろ起きるかな 椿の咲いている通勤路
(注1)ちなみに阿波野さんのTwitterは何気にずっと見ていた(私はけっこう短歌を読むのが昔から好き)のだけど、短歌の解説をよくしているアカウントで面白かった記憶がある。Twitterアイコンが『いちご100%』の西野つかさだったことを覚えている……。