ドライな文体
中島らもやチャールズ・ブコウスキーといったドライな文章を書く作家が好きだ。ドライと言っても彼らは感傷的で耽美な文を書いたりする。郷愁に思いを馳せたりする。「青を売る店」、「美しい手」、「町でいちばんの美女」。
ではなぜ彼らにドライな印象があるかと言えば、たぶん自分を突き放しているから。この、「突き放す」という按配がむずかしくて突き放すつもりで自分を下に置きすぎると卑下になる。
卑屈さには湿気がある。
卑屈・僻みを自虐ユーモアにしているのが森見作品の特徴。彼にも湿度の高い印象がある。
ところで一人称の多様性は日本語表現の大きな魅力のひとつだが、「僕」という一人称は自分をへりくだって言うときに「しもべ」を意味する「僕」があてがわれたのが始まりとだけあって、今でもその名残があるのかウェッティーな印象を与える。
村上春樹の一人称と言えば「僕」。しかし不思議とウェッティーな印象がない。ハードボイルド小説に影響を受けているからか、彼の文には卑屈さが微塵も見えない。代名詞「やれやれ」なんかカラッとしてる。
一人称はあくまでひとつの因子にすぎない。
ドライは無味乾燥とも違う。主張やテーゼを含んでいてもいい。要は自己保身がないってことが肝なんだろう。
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