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『従順さのどこがいけないのか』将基面貴巳(筑摩書房)|読書感想文020

高校生の頃に出会いたかった1冊。日本に長く暮らしているうちに「従順さ」を処世術として身に着け過ぎてしまったのではないかと、わが身を振り返ることができた。もちろん42歳になった今読んでも、遅くはなかった。

著者が住むニュージーランド南島のダニーデンという街では、高校生が気候変動のデモをしているという。当地の常識は日本とは違う。大人になるということは、学業を修めて就職し、経済的に自立することだけではない。市民(有権者)として公正な社会を築くため、政治や社会問題に関心を持ち積極的に関わっていくことも意味するという。

「政治」は国会議事堂で、特別な存在の政治家だけが行うものではない。「権威」として現れる存在に、服従することや従順であることが要求される状況は、すべて「政治」であると著者は説く。

本書では「政治」という現象が、「服従」や「従順さ」、そしてそれとは反対の「不服従」や「抵抗」というキーワードを中心に解説されている。日本社会に渦巻いている、従順であることを要求する心理的圧力や息苦しさから抜け出すヒントが見つかるかもしれないと思って読んだ。

まず「悪」とは何かを考えていく過程で、「服従」の本質を浮かび上がらせている。

「悪の凡庸さ」ということについて、ホロコースト関係者のアドルフ・アイヒマンの裁判例などをあげながら考えていく。悪は「悪者」が為すのではない。「指示に従っただけの凡庸な」人間が、つまり思考停止状態に陥っている状況や、思考の惰性によって生まれるのだということが述べられている。

自分も、知らずにまたは仕方なく、悪を成してしまうという自覚。それが服従を知る前に必要な認識だ。そして服従というメカニズムに迫っていく。

権威に対して人が服従するときに秩序が生まれるので、服従は社会秩序を保つためのセメントみたいなものとして機能しているという。なるほど。様々な権威があるが、日本は「空気を読む」「同調圧力」などと言われるように「空気」が支配する社会だ。王政などのように1人が権力を握るのではなく、集団の目による監視社会ということか。

圧政者のもとで隷従を長年強いられてきた人々は、それ以外の可能性を考えることをしないで、服従することが習い性となってしまいます。したがって、支配者が圧政者となり果てて、人々を抑圧しているとしても、服従するのが自然な状態である以上、服従をあえて拒否するには多大な心理的抵抗が生じることになります。

ということから、戦わなくてはいけない相手は支配者ではなく、私たち自身の内面に確立されてしまった「服従する習慣」であるという。

ではなぜ服従してしまうのかという心理について。ある権威や権力に服従する限り、自分が安心できるからだという。そして判断も決定もしないことから、「服従=責任がなく楽で自由」だと思い込んでしまう。服従するということは、自分が責任を取らなくてもいいことを意味するのだそうだ。

服従の本質というのは、人が自分を別の人間の願望実行の道具として考えるようになり、したがって自分の行動に責任をとらなくていいと考えるようになる点にある。

しかし、自分の行動について自分で決定しないということは、その場は楽にやり過ごせるかもしれないが、やはり問題がある。自分で意思決定することこそが「自由」なのだ。服従とは自由を手放すことである。さらに悪いことがある。服従しただけの小役人的態度を示したアイヒマンは死刑になったのだ。

何世紀にもわたって、人類は服従しないことを理由に処罰されてきた。ニュルンベルクで、人類は初めて服従したことを理由に処罰されたのである。

服従することは必ずしも道徳的に正しいことではないし、服従することで責任は必ずしも免除されるわけではないのだ。にも拘わらず、思考の惰性によって人は服従してしまいがちだ。

また、消極的不正という問題もある。不正を目にしながら黙っていることは共犯であるということ。

悪人が自分の歪みを実現するためには、善人が傍観して何もしないこと以外、何も必要としない。

イギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルの言葉

この社会変動の時代における最大の悲劇とは、悪い人々の騒々しい叫び声ではなく、善い人たちのひどい沈黙なのです。

アメリカで公民権運動を指揮したマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉

集団に埋没して、従順な態度で服従することには、ぬくぬくとした気持ち良さがある。悪や不正の温床は、このように私たちの楽をしたいという本能から出発しているのだ。常識や社会通念のたぐいも、思考を停止しさせ、行動を自動化するためのものとして使われることがある。

では消極的不正を自分が犯さないためにはどうしたら良いか。不正について異議表明する必要がある。不服従を唱えるときのスタンスの代表的なものには以下の3パターンがあるという。

①神の命令に従う ②自分の良心に従う ③共通善に従う

この文尾はすべて何かに「従う」となっている。問題は服従するかしないかではなく、わたしは何に服従すべきなのかということを明確にすることが、それ以外のものに対する不服従になるという。

私たちが簡単に服従してはならない対象は、自分以外の人間、そして人間たちが勝手に決めた事柄(社会ルール・法律)だ。最後に自分の戒めのためのメッセージとして、引用して終わりたい。

不服従の果てには、様々な苦難が待ち受けているとは言っても、まちがいなく得られるものは「私自身」である、と思います。それは、自分の足で立って、自分自身の人生を歩くということです。二十世紀フランスの実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトルのものと伝えられる言葉にこうあります。

「我々とは、我々の選択である」

つまり、私たち人間は、何事によらず一つひとつ、目の前の事柄について自ら選択することで私たち自身の人生を生きるのだ、ということです。自分で選択しなければ、私たちは自分の人生を生きていることにはならないのです。

自分自身で選択することを放棄し、他人任せにしたり伝統や習慣、ルールに無批判に従ったり、何事によらず「しかたがない」とか「自分がどうしようと何も変わるものではない」と諦めたりしていては、自分自身の人生を生きていないことになるのです。

権威や多数派に対して従順に服従するのではなく、自分自身で「選択」することとは、他ならぬ自分自身のアイデンティティを確立し、それを守り抜くことです。

なんとなく、多数派や社会習慣、「空気」や「同調圧力」に負けて自分自身の選択をしなければ、自分自身の生を生きるのではなく、「他者」の中に埋没して生きることになってしまいます。

「なんでもいいよ」「わからない」と言って逃げていてはいけません。「NO」というべきことをはっきり拒否できる人だけが、「YES」というべきことをはっきり肯定できる、ということです。


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