『孤高の人』(瀬戸内寂聴/筑摩書房):蔵書録2
蔵書禄1本目に思い入れの強い本を選んだ結果2本目へのハードルが高くなっていたので、基本的に事務的に、思い入れはまとまらないまま書く。
2冊目、『孤高の人』(瀬戸内寂聴/筑摩書房)
『孤高の人』は、瀬戸内寂聴氏が自作のための取材を機に知り合った湯浅芳子氏について綴ったエッセイ集だ。ロシア文学研究・翻訳者である湯浅氏と寂聴氏の交流、湯浅氏が寂聴氏に語った生い立ちや関係者の話、後半には史料に取材した章もあり、正確には評伝とエッセイの間となる作品かもしれない。
私がこの本を手に取ったのは20年以上前の冬、地元の図書館をうろついていた時に、ただタイトルに惹かれただけだった。それも当時好きだった人を「孤高だなー♡」と思っていたという馬鹿浮ついた理由で、この本の主役である湯浅氏も、著者の寂聴氏のことも1ミリも知らなかった。それでも冒頭の数ページに目を通せば、湯浅氏は実在する人物で、かつて作家・宮本百合子と恋人関係にあり晩年も女性と過ごしていたことがわかる。
本作の白眉は、チャーミングとか人間臭いとか、そういう丸い言葉では全く収まらない、湯浅芳子という人の苛烈で繊細な人物像だろう。お洒落で食通で家事全般に長け、毒舌家。情に厚く細やかに人に気を配る一方で、他人には推し量れないポイントで烈火のごとく怒り、手がつけられなくなってしまう(これは年代的に更年期障害などの影響も考えてしまう)。自身の内にある抜き差し難い「俗っぽさ」を自覚しながら、他人の「俗っぽさ」を激しく嫌悪し聞くに堪えない批判の的にする――。
寂聴氏のまろやかな文体でなんとなく中和されてはいるが、付き合いのあった故人について普通ここまで書かんやろ、という側面まで冷徹に作家の目で踏み込んでいて、そういう意味ではエッセイというより評伝の色合いが濃いのかもしれない。湯浅氏に「(宮本)百合子に似ている」と目をかけられ、お金も時間も捧げ、しかし何度も煮え湯をのまされてきた寂聴氏だからこそ、ネガティブな面も悪口ではなく、多面的な彼女の不器用さを示す切ないパーツの1つとして機能しているのだと思う(余談だけど、『おいしい関係』(槙村さとる)の百恵と千代ばあの関係は、寂聴さんと湯浅さんの関係をかなり想起させる)。
しかしなにより当時の私が惹かれたのは、本の主題からは少し外れるが、湯浅さんが同性愛者で、かつ写真が老年女性であったことだった。それまで「中年以上の女性で同性愛者」という人を、フィクション含めてほとんど目にしたことがなかった。老年女性カップルという存在を、現実的にうまく想像できたこともなく、中年以降は孤独に過ごすか、結婚するかしかないものだと思っていた(今も完全に拭えたわけではない)。そんな想像力に乏しい私にとって、湯浅氏が女性を愛しながら明治から平成にかけて実際に生きていて、中年以降も女性と過ごしていたという事実は結構な衝撃で、当時まだ10代だった私には相当蒙を啓かれる経験になった。経済的にかなり特別な環境下ではあっても、「実在した」という説得力は強い。
今あらためて読みなおすと、寂聴氏が女性カップルの関係を「夫側/妻側」と分けている場面や、かなり一面的で狭いジェンダーの捉え方など、令和の今読むには気になる点は多々ある。それでも、寂聴氏にしか書き出せなかったであろう湯浅氏の姿、特に百合子氏への愛情が傷となって深く刻まれた佇まい、同時代を生きた文壇界隈の人々とのみずみずしいエピソード、晩年の(おそらく)認知症がもたらす哀愁、そういった魅力はまだ変わらず輝いている……と思う。多分。
この本を機に、寂聴氏が手がけた評伝を何冊か読んだ。小説は残念ながら性に合わず1冊も読み通せていないけれど、何冊かの評伝は面白く読んだ。田村俊子、岡本かの子、伊藤野枝、平塚らいてう。数珠つなぎにいろいろな作家を知ることとなり、それまで敬遠していた近代文学が少し読めるようになった。この本でなければ、私の入口にはならなかったかもしれない。
そしてなにより、人はどんなふうに生きてもなんとかなる……というより、なんともならなくても誰もが生きて死ぬことには変わらない、という楽観のような諦観が生まれて、過ごしやすくなったと思う。そう考えると寂聴さんには感謝である。