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デスノートを使っても天国に行ける理由【『DEATH NOTE』/東洋思想 考察・感想】
※本記事はTVアニメ版の特にラストに重点を置きながら、漫画版を取り合わせて考察をしています。
『DEATH NOTE』が宗教っぽさ、西洋っぽさ(ゴシックぽさ)をまとっていることは一目瞭然(ただキリスト教には『死神』は存在していないらしく、魂を奪う存在は『天使』または『悪魔』と表現されるらしい)。
ではこの作品において読者への宗教っぽい問いかけは一体何だったのだろうか。それは、
「悪い人だからこそ天国へ行ける」
というものだと私は考えた。
本記事では「なぜ人々は『キラ』を求めたのか」についてと、『DEATH NOTE』が見た目に反して実は東洋思想的であることを解説する。
【動画版】
悪いことをした人は“悪い人間”?
夜神月(やがみらいと)は自身が目指す新世界がどのようなものかをこのように述べている。
夜神月
「僕が認めた真面目で心の優しい人間だけの
世界をつくり上げていく」
それすなわち「悪い人間が不幸になる世界」だ。
月が辟易していたのは善い人間が一部の悪人によって嫌な目に遭ってしまう「世の不条理さ」であるわけだが、大前提として悪い行いをした人は“悪い人間”なのであろうか。
例えば、主人公である夜神月はデスノートの力を検証する際にただの冗談半分で名前を書いた。さらに確認のためにもう一人の名前を書き、計二人の人間を殺してしまった。これはデスノートなんてものを拾ってしまえば誰だってやってしまいそうな行いである。
はたしてこの行為は“悪い人間”の所業であると言いきれるだろうか。
シブタクを殺した直後、月はこのように述べる。
夜神月
「ふ…二人殺した… 人を… 二人殺した……
僕が… どうする…(中略)
いや… 殺したって構わない奴じゃないか…
(中略)しかし二人目はどうだ?…………
死刑になるほどの悪人じゃないぞ…」
アニメ版においてはわいせつな行為に及んでいたシブタクであるが(だが初めに行為に及んだのはシブタク本人ではなくその仲間)、漫画版ではちょっと強引なナンパ程度である。果たしてシブタクは“悪い人間”だったのだろうか。
それよりも悪い行いをしたことを自覚している月のほうがよっぽど“悪い人間”ではないだろうか。どうだろう。
答えが堂々巡りする。
“悪い人間”が不幸になる世界。
例えば、
工程ミスによる食中毒で客を死なせてしまった飲食店のスタッフ
徴兵されて仕方なく敵兵を撃たなければならない兵士
「名前を書かれた人間が死ぬ」というノートに他人の名前を書いた高校生
これらの人々は悪い行いをしたかもしれない。
しかし“悪い人間”だとして不幸になるべきだろうか。
人々が「キラ」を求めた理由
作中では天国や地獄が死神界のように別次元・別空間的なものとして存在することを示唆してはいない。
漫画版の終盤にて明かされるリュークの「死んでからのお楽しみだ」の続きのセリフを引用する。
リューク
「デスノートを使った人間が
天国や地獄に行けると思うな
それだけだ 死んでからのお楽しみだ」(中略)
夜神月
「単に 天国も地獄もないって事だろ?」(中略)
リューク
「ああ おまえの言う通り 天国も地獄もない
生前 何をしようが死んだ奴のいくところは同じ
死は平等だ」
ようは悪い人間であろうが善い人間であろうが関係なく、「死」は人を価値判断できない・しない、という意味だと考えられる。
なぜ『DEATH NOTE』の人々は「キラ」を欲したのか。
それは「本来、価値判断をしないはずの『死』が人の価値判断をする」という現象を起こしたからだ。
「キラ」という現象が”悪い人間”を殺しまくったことによって、残った人々は生きているだけで「自分は”善い人間”なんだ!」という論法を生み出すことに成功したのである。
リュークの言う「死は平等」という不条理(「他力」)を無いものとして生きて行けるようになったのである。
「自力」で死を払いのけて生きている(逆に「自力」で死をもたらすこともできる)と信じられる。
このように「自力」の力を信じることができるようになったことで人々は”計画通り”に生きていけると信じることが叶うのである。
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(C)大場つぐみ, 小畑健『DEATH NOTE』第7巻,株式会社集英社,p24
これも一種の「救い」ではある。
しかしいつかは「他力」がこれを認めず打ち砕く。
そして夜神月は追い詰められた。
「おい『他力』ってなんだよ!?ぶち〇すぞ!?」
と思われた方、回りくどい書き方をして申し訳ございません。ですが、後述内容を分かりやすくするためのある種の伏線なのでご容赦ください。
さて、「他力本願」という言葉をご存じだろうか。他人任せにすること?確かにそういう意味も含まれている言葉ですが、別の意味があるのです。
次は、この「他力」について東洋思想を用いて解説していく。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
『歎異抄(たんにしょう)』という日本の仏教書には常軌を逸しているとも感じられる内容が書かれている。
それが「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」で始まる一節。
これを分かりやすく現代語訳してくれている文献から引用する。
「善人ですら極楽浄土へ行くことができるのだから、ましてや悪人が極楽浄土へ行くのは当然のことである。しかし、世間の人は常にその反対のことを言う。悪人ですら極楽へ行けるのだから、ましてや善人が極楽へ行くのは当然ではないかと」
これがどういう理屈か説明するにあたって、『歎異抄』に書かれている親鸞(しんらん)というお坊さんと弟子の唯円(ゆいえん)との問答の現代語訳も、先の文献から引用する。
親鸞「唯円よ、おまえは私の言うことを信じるか?」
唯円「はい、もちろんでございます」
親鸞「そうか、それではこれから私が言うことに決して背かないか?」
唯円「はい、背きません」
親鸞「よし、では一〇〇〇人殺して来い。そうすれば、おまえは必ず極楽へ行ける」
唯円「そ、そんな私にはムリです。一〇〇〇人はおろか一人だって殺せません!」
親鸞「だったら、どうしてさきに親鸞の言うことに決して背かないと言ったのか!これでわかっただろう。思うままに善悪ができるなら、お前はただちに一〇〇〇人殺すことができたはずだ。しかし、おまえはできなかった。それはおまえが決めることではないからだ。言っておくが、お前の心が良いから殺さなかったとか、そういう話じゃないぞ。逆に、おまえがどう思おうが、一〇〇人、一〇〇〇人と人を殺してしまうことだって起こりえるのだ」
(太字強調は記事作成者によるもの)
上記の引用文の内容を私は『DEATH NOTE』にぴったりだと思った。
上記はすなわち、自分自身を「善人(“自分が”正しい行いをしている・してきた人)」だと信じている人は自分が善い行いをすればその恩恵があり、悪い行いをすればその報いがあるのは当然じゃないかと考えがちだけど、そもそも善い行為も悪い行為も「自力」では決してできないよ、という意味だ。
親鸞の言うとおり、悪いことをしようと思っていなくたって結果的に悪い行いをしてしまうことは往々にして有り得るのだ。
先ほど挙げた、
工程ミスによる食中毒で客を死なせてしまった飲食店のスタッフ
徴兵されて仕方なく敵兵を撃たなければならない兵士
これらの人々は「結果的に悪い行いをしてしまった」人だと考えられる。
それは夜神月にも言えることである。
「名前を書かれた人間が死ぬ」というノートに他人の名前を書いた高校生
例えば、月がデスノートに名前を書いたのが最初の一人だけで「まぁただの偶然か」「くだらない」とノートを捨てていれば、もしくはそもそもデスノートを拾った直後に捨てていれば、リュークが月の前に姿を現すことも無かったかもしれない。
さらに月は自分が人を殺したということ、自分自身が悪い行いをしたことに気がつけないまま“無”に行くことになってしまっただろう。
リューク
「選んじゃいない 俺はただノートを落としただけだ
賢い自分が選ばれたとでも思ったか? 自惚れるな
たまたまこの辺りに落ち たまたまお前が拾った
それだけのことだ」
夜神月は最初から最後までノートに名前を書いただけなのだ。「自力」で人を殺したことなんて無かったのだ。
殺しちゃいない。月はただ名前を書いただけだ。それだけのことだ。
本当はノートの力という「他力」であるのに「自力」であると信じ込んでいた。ゆえに偽名や偽ノートを掴まされた時、すなわち「月の“自力”」が破綻するたびに月は動揺していた。月は「自分がやっている」という思い込みの中で生きてきたからだ。
そして「自力」で生きることには限界があり、長い人生、「自力」が通用しないことがいつかは起きてしまうのだ。
夜神月
「他の者にできたか!? ここまでやれたか?
この先できるか?
そうだ 新世界をつくれるのは僕しかいない」
ニア
「いいえ あなたはただの人殺しです
そしてこのノートは史上最悪の殺人兵器です
あなたは死神やノートの力に負け
神になろうなどと勘違いしている
クレイジーな大量殺人犯
ただそれだけの何者でもありません」
月(つき)は「自力」で光ることが出来ないのである。
だからこそ東洋思想(親鸞)は「“他力”に任せよ」「成り行きに身を任せろ」と、全ての苦しみから解放される最強の哲学を説く。
これがあの有名な『他力本願』という哲学である。
天国への階段 <悪人の救済>
端的に言って、世界一”悪い”人間になった夜神月。
彼が最後に見たものは一体なんだったのか。
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彼の死に際の目は何を見ていたのか。
それは「救い」だったのではないだろうか。
歪んだ青春とも言うべき日々。デスノートを使った理由は「退屈だったから」と月は認めている。それが夜神月の本質なのである。
退屈な日々を送る程度の能力しか無いのが「夜神月」だったのだ(悪口のつもりは無い)。
彼は「夜神月」をやめたがっていた。新世界の神になろうとした。非凡であろうとした。
非凡を求めた結果、どうなったか。
血を血で洗う日々。愛する人も死んだ。
追い詰められた月はこのように口走る。
夜神月
「魅上! 何してる!? 書け!
こいつらを殺せ!!」
「海砂はどうした!? 高田は!?
だ、だれか…
一体、どうすれば…」
月はここに来て「他力」を理解したのである!!
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今まですべてが「自力」であると考えていた月は見つけたのだ。
天国への階段を。
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(C)大場つぐみ・小畑健/集英社・VAP・マッドハウス・NTV・D.N.ドリームパートナーズ
またまた『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』から長めの引用をする。
この引用文はぴったりどころかほぼ『DEATH NOTE』のことであると私は感じた。
悪人(正確には自分は悪人でどうしようもないと思っている人)というものは、善人よりも「他力」の境地になりやすい。というのも「ロクな目に遭ってこなかった」からだ。
彼だって本当は「善人」になりたかった。「自分は良いことをしている」と胸を張れる人間になりたかった。口では「善人なんかくだらない」と言いながらも、もしなれるとしたら間違いなく善人になっていた。
だが、現実はなぜかいつも空回り。「正しいと思うこと」をやろうとしても裏目に出て逆に恨まれ、弱いものを助けようとしても力不足で助けることもできず、逆に痛い目に遭う。そのうち彼は気が付く。「自分が正しいと思うこと」は「できない」のだと。この世はそういう世界ではないのだと。
こうして彼は「正しさ」を諦め、人生に妥協し「悪いと思うこと」であってもするようになる。
しかし、その人生は彼にとって地獄だ。なぜなら、彼は「『(自分の価値観において)悪い』と思うことをしている」からだ。それが「ホントウに悪いこと」であるかはともかく、「『悪い』と思うこと」をやり、自分自身を「悪人」と規定している以上、彼は当然苦しむ。後悔、自己嫌悪、惨めさ、腹立たしさ、あらゆる負の感情が彼をさいなむだろう。だから、彼はこう叫びたい。
「こんなのは嫌だ……、もううんざりだ……。自分が悪い、間違ってるのもわかっている……。でも……、だからってどうしようもないだろ! 俺だってやりたくてやってるわけじゃねえよ!」
そこ! まさにそこ! その「どうしようもない」「やりたくてやっているわけじゃない」という思い。それがあるからこそ、彼は「他力」になれる。「自分がやっている」という思い込みを放棄できる。なぜなら、その思い込みは彼にとって重荷であり苦しみであるからだ。(中略)
「もううんざりです! 助けてください!」
この思いと念仏が、悪人を「他力」という極楽の世界に導く。
(太字強調は記事作成者によるもの)
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死に際の逃避行、それは月にとって「キラ」からの逃避であり、同時に「夜神月」からの逃避でもあった。さらに月にとって死は「キラ」からの開放であり、同時に「夜神月」からの解放でもあったのだ。
天国はどこにある?
この世の中には死神(もしくは死)しかいないのかもしれない。
死神リュークがもたらした死は、結果として「夜神月」から月を解放したが、これはリュークという存在が月にとっての太陽的な『他力』となったわけではなさそうだ。
「キラ」を太陽として人々は自分たちを”善人”だと疑わなくなった。
「キラ」という概念をつくり出す”善人”を太陽として夜神月は自分を神(全て「自力」でできる者)と疑わなくなったように、互いが互いを照らしているような関係性を俯瞰しても固有の太陽は見当たらない。
繰り返す。
この世の中には死神(もしくは死)しかいないのかもしれない。
さて、どこに神がいるのだろうか。どこに天国はあるのだろうか。
ここからは勝手なことを書く。
私はいつかたどりつくまでの「退屈な日々」の中に“あった”ような気がしている。
夜神月は逃走のさなか、普通の高校生として生きる自分を回想し、
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逃走中であるにもかかわらず、鬱々として何処かつまらなさそうな自分の面影に月は目を奪われる。
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いつも学校の窓から差し込む日の光の温かさと制服のジャケットにこもる熱。
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下校中に見向きもしなかったあの落ちていく夕日の目を刺す輝き。
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かつての友の面影。
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特別な思い出ではないその日々。
何かを捨ててきた日々。
ただ通り過ぎることしかできなかった”あの日”。
どこかの工場の鉄階段に横たわる月を”今日も”夕日がやさしく照らした。
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通り過ぎた“あの日”がいつか私たちの目の前に現れるだろう。
あの思い出せもしない「退屈な日々」が。
追記:2023/01/21
この記事を元にゆっくり解説動画を投稿したのですが、そちらに「この動画を見ると原作のオチ悲惨すぎ(笑)」というコメントを頂きました。
たしかに(笑)と思いつつ、私なりに原作版のラストについての考察を追記いたします。
原作は『キラ(夜神月とデスノート)』という『他力』に 立ち向かう人々を主人公に据えた物語という印象を受けました。(特にエピローグ)
夜神月は神にはなれず仕舞い。 松田桃太をはじめとした当事者たちも煮え切らない様子。
社会は以前のように”悪”がはびこり、リュークも退屈に逆戻り。
まったく救いが無いように感じられます。
しかしラストに描かれた祈る人々(おそらくキラ信者)は 最後の救いの描写だったように私には思えます。
彼らは『自力』を失い、路頭に迷っている。
だからこそ「もううんざりです! 助けてください!」 という『他力』の境地を垣間見ることができる。
『キラ』を失った世界だからこそ彼ら (及びマンガを読み終えてしまった私たち)は祈り、『他力』を知る。
夜空に浮かぶあの”月”を見上げて。