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『星の王子さま』私見:2つの主要研究を繋ぐキーワード「主動性」について

はじめに


アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』は、有名な文学作品である。描写の美しさが、日本では特に肯定的に評価されているようだ。一方で筆者を含め、「分かりにくい話」という感想もよく聞く。確かに、ミステリアスな話ではないだろうか。本稿ではその謎に少しでも迫るべく、これまでに『星の王子さま』について為された二つの主な研究を概観し、その共通項について述べたい。ここには筆者自身の人生も、深く関わっている。筆者は正に「当事者」なのだ。

『星の王子さま』にまつわる二つの研究


まず、それら「二つの研究」とはどのようなものか。まずはユング心理学の重鎮、フォン・フランツによる書籍(M.‐L.フォン・フランツ著 松代洋一・椎名恵子訳『永遠の少年』紀伊國屋書店 1982年)がある。これは『星の王子さま』に見られる、作者テグジュペリの心理分析で、簡単に言えば「大人になれない未熟な男性」の病理を考察したもの。2つめは安冨歩・元東大教授の著作(安冨歩『誰が星の王子さまを殺したのか モラル・ハラスメントの罠』明石書店  2014年)である。こちらは簡単に言えば、『星の王子さま』が卑劣なモラル・ハラスメント(加害ー被害の関係が不明瞭なハラスメントの一種)を描写した話だと見做した研究だ。安冨元教授はフランス語の原文までチェックしたうえで、この物語を恐ろしい話だと考えている。いずれにせよ両方の研究ともに、『星の王子さま』という話の否定的側面に着目しているのだ。

「主動性」というキーワード


筆者はまず、前者の研究には早くから注目していた。自らを、大人になれない「永遠の少年」だと考えていたためだ。最初に読んだのは約30年前、高校生の時ではなかったか。もちろん十分に理解できず、折りに触れ読み返してきた。後者の研究は出版自体が新しいが、『星の王子さま』研究の白眉のように思う。何より安冨元教授自身の経験が活きた研究だ。そして筆者は長らく(今も?)モラル・ハラスメントを受けてきたのである。筆者は両方の研究に随分と納得させられたが、一方で二つの研究の接点が疑問だった。当然それは、テグジュペリの人生ということになる。だが、どういうことだろう……? 実はつい最近、発達性トラウマ障害や複雑性PTSDに関する研究をかじったことで、見えてきたことがある。大人になれない「永遠の少年」の病理と、「モラル・ハラスメント」を受けたことによる病態とを繋ぐものとは、「自我の主動性」に関わることではないのかと。

※「主動性」……主体的に、自分から動く心性のこと。精神科医の中井久夫が、ジュディス・L・ハーマン著『心的外傷と回復』(みすず書房)を翻訳するなかで "initiative" の訳語として用いている。普通は主「導」性と訳されるが、意味を考えたものだろう。国語辞典にも「主動」という言葉はあるためだ。「主動性」と言って分かりにくければ、「主体性」と読み換えてもよい。さほど、意味はずれないと思われる。

要するに誰かからモラル・ハラスメントを受けると、被害者の自我における「主動性」が損なわれてしまうのだ。人間はふつう思春期・青年期を迎えると、自立してアイデンティティの形成へと向かう。そして自立には、自我の確立が欠かせない。だがここで自我の主動性が健全に育っていないと、大きな困難をむかえてしまう。すなわち自立ができず、なかなか「大人になれない」というわけだ。フォン・フランツの研究は、大人になれない男性に対して手厳しい、耳が痛いという意見もあるそうだが(河合隼雄『母性社会日本の病理』中公叢書)、もし深刻なモラル・ハラスメントが背景にあるならばどうだろう。大人になれない「永遠の少年」を一方的に責めるのも、少し不公平と言えるのかもしれない。

女性の場合

女性の場合はどうだろうか。大人になれない病理を「永遠の少年」と呼ぶひとつの理由は、人間の自我を「男性性の顕れ」と考えるためだ。つまり女性が自我をうまく確立できない場合も、やはり大人にはなれないと考えられる。これについてはユング派が、「永遠の少女」という概念で検討しているようだが深くは立ち入らない。ただし人間である以上、自我の主動性が自立に必須なのは性別を問わないだろう。主動性が損なわれたままで健全に自立できないのは、ある意味当然と思われる。

肯定的側面も??

ここまで人間が自立できないことを、否定的に捉えて書いてきた。だがひとつ補足しておこう。なかなか大人になれない人間が、その子供らしい純粋さを保ったままで自立することも稀にあるのだ。その場合、子供の純粋さと大人の強さの両方を兼ね備えた素晴らしいパーソナリティになることがある。ただし子供の未熟さと、大人の頑固さが合わさってしまう場合もあるので単純ではないのだが。いずれにせよ、両方の長所を活かすのが理想なのである。つまり「大人になる」ことのみを性急に目指してしまい、子供や青年に特徴的な可能性の芽が摘まれてしまうことも一応あるということだ。「永遠の少年」「永遠の少女」は、もしその長所を残したまま大人になれれば素晴らしい場合がある。非常に難しいことのようだが。

最後に

『星の王子さま』に登場する「王子さま」は、ある意味で童児神である。だが彼の辿った運命は、悲劇的ではなかったか。そうした心理がもし現実の悲劇に基づくものだとしたら、あまり感傷に浸ってばかりもいられない。健康的な人生を送るうえで、自我の主動性は欠かせないからだ。テグジュペリがモラル・ハラスメントを受けていたとするならば、その純粋な精神は食い物にされている。そして彼は精神的のみならず、肉体的にも死に追いやられてしまったのかもしれない。『星の王子さま』という作品は、同様の悲劇を自分の人生に迎えることのないよう、そうした経緯を念頭に置いて読むべきだと思われる。その際には本稿で取り上げた二つの主な研究も、重要な副読本となりうるだろう。

(補足)

安冨歩『誰が星の王子さまを殺したのか』では、フォン=フランツの研究を退けている箇所がある。しかしこれは、フランツの説明不足からだろう。彼女の講義の対象は、スイスまで留学してユング派分析家の資格を取ろうとする専門家候補者である。このコースは非常に厳しく、日本で活躍しているユング心理学者でもこの資格を取れていない人がよくいる。だからこそフランツは、中級者向けの用語解説は省いたのではないだろうか。例えば「象」が確立された自我を象徴することは、シンボル事典を見れば載っているから深く説明しなかったのだろう。またフランツが「母親」という表現で意味している言葉も、厳密には「母親元型」を指すと考えられる箇所がある。ともあれ安冨歩の研究とフォン=フランツの研究は特に矛盾しないと筆者は考えている。

(最後までお読みいただき、ありがとうございました。)





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