とどのつまり、俺は一体誰なんだ?
Instagramから流れてきた広告を見て、どうしても観たくなったので、必死で予約した歌舞伎『天日坊』。あらすじは以下の通り。
原作は、河竹黙阿弥「五十三次天日坊」。これが155年前、1867年の作品だそうな。観劇後の今、1867年、調べてみると、大政奉還の時。
幕末の変動期、明日も見えないその時期に上演された作品が、現代に演じられるとどうなるか。改めてその凄みを感じ入る。
全体を通して、その迫力、舞台にいるキャラクター、一人ひとりの躍動感、特に終盤の立ち廻りのシーンは圧巻。音楽が全編を通して生演奏であり、その雰囲気が臨場感、没入感をさらに増している。
出てくるキャラクターは、それぞれに素晴らしいのだが、なんといっても主人公の法策のその生き様、自分は何者であるのか、純朴な青年が、何者でもない自分が、誰かに成り代わることによって、上り詰めていく。しかしその最中で、本当の出自がわかったとき、結局自分は、何者であったのか、わからなくなる。
法策が紆余曲折を経て、自分を【天日坊】と称したその瞬間の、なり代わりようといったら、なんと迫力のあることか。
「とどのつまり、俺は一体誰なんだ?」
これは、結局、幕末であろうと、現代であろうと同じなんだと思う。結局、自分は誰なんだろう。他者から見れば、その立場は様々。自分で自分がわからなくなる。こうありたい、と思って生きてみても、結局なんだかわからない。自分がわからなくなった天日坊が、最後につぶやいたセリフがさらに印象的。
自分が何者であるのか、結局決めるのは自分なんだろう。
自分は、自分でしかない。これを決めていくことが、生きることなんだろう。
今日も思う。
『とどのつまり、俺は一体、誰なんだ?』