哲学における心理学
心あるいは精神とは何かという問題は、長い間、哲学の問題であった。哲学の伝統では、科学的な実証というよりは思弁が用いられて、すなわち、自らの精神(思考)という手段によって吟味することによって研究が行われてきた。
心理学では客観性を重視する立場と主観性を重視する立場が常に葛藤を起こしているが、これは、ギリシャ哲学以来の伝統なのである。主観例を代表するのがプラトンであり、超越的な存在であるプシケが物理的存在である身体に宿ると考えられていた。一方、客観性を代表とするのがアリストテレスであり、彼はプシケを機能と捉え、身体とは切り離されていないものと考えていた。
この主観性(精神)を重視するか、客観性(脳を含めた身体)を重視するかという議論の伝統はデカルト17世紀の心身二元論に受け継がれている。彼によれな、ヒトとは、相互で独立で無関係な「精神」と「身体」をもった存在で、身体は物質で構成されているが、精神は非物質である。身体は機械と同じ物理的な原理で動いていく。一方、心の存在原理は「われ思う、故にわれあり」に集約されるように、あくまで主観的である。ここから派生するのが、心身問題と呼ばれるもので、物質と非物質という互いに独立した存在がどのようにして相互に作用しあうのかという点を問題とする。この心身二元論は、精神を重視する方向として、人間機械論や科学的な心理学へと発展した。
意識研究は、イギリス経験論に受け継がれた。この立場では、個々の事実から一般的原理を帰納していくというスタイルが使われているが、精神についてもロックに代表されるように、生まれたばかりのヒトは白紙(タブララサ)であって、そこからの経験によって、様々な観念が形成されるとする連合主義に発展していった。ところが、皮肉的なことにこの連合主義は、むしろ現在の客観的な心理学を代表する行動主義の原理の一つになった。
注釈:タブララサ:白紙の状態 ロックがデカルトの生得観念に反対して、人間は生まれたとき全白紙の状態であり、経験からの印象により知識が成立すると主張した際に用いられることば