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『呪われた腕 ハーディ傑作選』 トマス・ハーディ 河野一郎訳

(読み始めたころに書いた感想)

作家の名前は耳にするけれど、作品はひとつも読んだことがないというケースってけっこうあるんじゃないかと思う。僕の場合はかなり多い。そのひとりであるハーディの短編集を買った。新潮社から出ている、『呪われた腕 ハーディ傑作選』と改題され復刊した一冊。なるほど、これはなかなか面白い。

なにがおもしろいんだろう。いまの価値観とずいぶん違うところもあるし、文章自体もなんだか古臭い感じはするのだけど、高級な紫帯の揖保乃糸を食べているみたいな、スルスルといくらでも読めてしまう魅力がある。風景の描き方というかキャラクターの描き方というか。いやほんと、高級そうめんみたい。

(中盤まで読み進めて)

『ハーディ傑作選』を読んでいて思ったのだけど、このおもしろさは古典落語に通ずるものがあるのかもしれない。

いまの小説って、描写の精緻さというか解像度というか、そういうものが上がっていて、一つひとつが細かく丁寧に描かれていると思うんだけど、19世紀に書かれたハーディの小説は、良い意味で描写に大らかさがあって、こうなったからこう! という展開の速さがすごい。短編で半生を描ききってしまう。

ハーディの時代なら、人物の身分を明らかにするだけで、多くの背景を語れただろう。しかしいまは(建前上は、という注釈を仮につけるとしても)誰もが自由に恋愛をし、自由に職業を選び、自由に自分の意思で行動できるからこそ、人物ひとりを描くにしても様々な描写が必要になるのかもしれない。

(読み終えて)

短篇集やアンソロジーなどを読んでいるときは、その中から(少なくとも)一篇を選んで感想を書くことにしている。ところがトマス・ハーディの傑作選については、全体の印象みたいなものしか書けていない。『幻想を追う女』『憂鬱な軽騎兵』『呪われた腕』など、印象深い作品はあったのだけれど。

これまでは「ナニコレおもろ!」という高揚があって、その勢いに任せていた。ところがハーディの短篇は、読後の興奮が幾分か静かだ。それは、高速道路のライブ映像を無音で流しているときのような、深夜と夜明けの合間に見る、静かな微睡みの風景という感覚なのかもしれない。


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