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2020年3月29日 21:35
その男には、顔がなかった。鉄のようにつるりとしたのっぺらぼうで、灰色のコートに身を包み、私が帰る夜道の街灯の下に、ただじっと立っていた。少し俯いて、どこか寂しそうだった。私が横を通り過ぎても、身じろぎひとつしなかった。初めてその男を見た晩から、雨が降っている夢を見るようになった。どこかの町でもなく、山や海でもなく、灰色の果てのない世界に、雨だけが降っている夢だ。頭上を見上げても足元を見
2018年3月7日 00:14
中学を卒業すると、村を出て町の進学校へ通った。高校を出てからは、さらに都心にある大学へ進学した。就職を機に上京し、いつしか村へはほとんど帰らなくなった。大人になるにつれ、残像たちとの距離も次第に離れていった。満員電車の中で窮屈そうに変形しているものや、スクランブル交差点の途中で立ち尽くしているものもいたが、残像たちに気を配るには、東京はあまりにも生身の人間が多すぎた。一度も交流したことはない
2018年3月3日 17:11
幼い頃、私は生き物の残した残滓が見えた。たとえば、ふと宙を見上げると、鳥が飛んでいった跡が飛行機雲のように見えたり、切られてしまった大木の切り株の口を、名残惜しそうに取り巻いているのを目にした。よく動き回る犬などを見ていると、実像が掴みにくくなるほど、残滓がそこらじゅうに散って見えた。人は、とりわけ濃い残滓を残す生き物だった。人が去って間もない残滓は、ほとんど人のかたちを留めたまま残っていて
2017年9月17日 11:09
私は霧の中を歩いていた。誰かが前を歩いているような気がしたが、その人影はぼんやりと霧の中に隠されて、誰だか分からなかった。しかしどうやら、霧の向こう側から、無言で私を誘導しているらしい。私は安堵して彼のあとを追った。霧は深く、宙に漂う水滴一粒一粒がやけに大きい。魚の群れのように、水滴が空中で波をつくり、音もなく蠕動している。霧にまかれているはずなのに、不思議と肌は湿っていなかった。足にも感触
2017年9月12日 00:51
人疲れした夜は、誰もいない街を想像する。東京という大都会に、人が忽然といなくなった、静まり返った夜。都心から郊外へ、血脈のようにはりめぐらされた線路の上を、さびた鉄の音を軋ませながら、無人の電車が走っていく。繁華街のネオンは、招く客がいないのも無頓着な様子で、ただこうこうと光を放っているままだ。入り組んだ首都高はオレンジ色の光に照らされ、東京タワーは明々と夜闇に浮かび上がり、そびえ立つス