霧の棲む土地
私は霧の中を歩いていた。
誰かが前を歩いているような気がしたが、その人影はぼんやりと霧の中に隠されて、誰だか分からなかった。しかしどうやら、霧の向こう側から、無言で私を誘導しているらしい。
私は安堵して彼のあとを追った。
霧は深く、宙に漂う水滴一粒一粒がやけに大きい。魚の群れのように、水滴が空中で波をつくり、音もなく蠕動している。霧にまかれているはずなのに、不思議と肌は湿っていなかった。足にも感触がなかった。視線を下に落としたが、霧に隠れて自分の足元すら見えず、何を踏みしめて歩いているのか、靴を履いているのかさえも分からなかった。つま先を動かしてみても、やはり感覚はなく、ただ自分の足が歩いているということだけが分かった。
辺り一面が静寂に包まれ、足音も、霧の動く音ですらかき消されているようだった。
前を歩いていた誰かが立ち止まった気配がした。
歩をとめ、目をこらした。
湖のほとりだった。漂っていた霧は、この湖から立ちこめているようだった。おそるおそる手を伸ばすと、湖に水はなく、霧だけが溜まっていた。底は知れなかった。いつの間にか、私を招いた誰かは忽然と消えていた。
霧がうごめき、かすかに晴れた。
私は白い砂の上に立っていた。砂はあまりにも軽く現実味がなく、不快なざらつきもなければ、肌にまとわりつくこともなかった。試しに片足を小刻みに動かしてみたら、砂はふわりと舞いあがり、たちまち霧散した。散った砂は、湖から湧き上がってくる霧と混ざり合い、やがて何事もなかったかのように宙を漂い、私をとりまいた。
この霧は、私が踏みしめてきた砂でできているらしかった。
あるいは、この地の砂は霧でできているのかもしれなかった。
それに気づくと、私のこころは、至上の安寧に包まれるのを感じた。
ゆっくりと、音もなく、歩を進めた。
湖の中へ。
白い砂の霧の中へ。
腰のあたりまで霧に浸かったとき、ようやく感触が戻ってきた。霧はひんやりと冷たく、湿り気を帯びて、私の身体に染みてくるようだった。
私は微笑んだ。目を閉じ、さらに奧へ進んだ。
私の身体は、音もなく、ひっそりと沈んでいく。
砂の霧の湖の底へ。
やがてこの霧に溶けていくのだろうと思われたが、それきり、私の思考は終った。
最後まで読んでくださってありがとうございます。 わずかでも、誰かの心の底に届くものが書けたらいいなあと願いつつ、プロを目指して日々精進中の作家の卵です。 もしも価値のある読み物だと感じたら、大変励みになりますので、ご支援の程よろしくお願い致します。