見出し画像

水銀の男

その男には、顔がなかった。鉄のようにつるりとしたのっぺらぼうで、灰色のコートに身を包み、私が帰る夜道の街灯の下に、ただじっと立っていた。
少し俯いて、どこか寂しそうだった。
私が横を通り過ぎても、身じろぎひとつしなかった。

初めてその男を見た晩から、雨が降っている夢を見るようになった。
どこかの町でもなく、山や海でもなく、灰色の果てのない世界に、雨だけが降っている夢だ。
頭上を見上げても足元を見下ろしても雨だった。
まだ始まったばかりの未知の惑星のように、地もなく天もなく、ただ上から下へ、雨が降る。降り落ちた雨が当たる地面もないから、雨音も聞こえない。
雨の匂いだけが漂っていた。
その雨を私は温かいと感じた。
朝目覚めると、自分の体内にある水分がいっぱいになって、溢れて溶け出すような心地がした。

毎晩、銀色の顔をした男の脇を通って帰路についていたが、あるとき、その男のコートが少しずつ薄くなっているのに気が付いた。
襟を立てて着こんでいたはずの灰色のコートは、いつしか襟がなくなり、裾も短くなっていた。履いていたはずの靴もなくなり、足が剥き出しになっている。足の甲も指も爪も、磨いたようにつるりとした銀色だった。
顔と足だけが、街灯の光に照らされて、ある角度でぴかりときらめいた。


夢の雨は止まない。それどころかますます強くなる。
春雨のように細くこまやかな粒だったのが、今や車軸を流すような大雨になっていた。
雨粒は大きな塊になって降ってきて、目ではとらえられないほどの速さでどこまでも落ちていく。
霧のようだった雨はいつしか線状になり、世界は灰色の幕がかかったようになった。
目覚めたときの水気はますます強く感じるようになっていた。

男の服はついに消えてなくなった。全身が鏡のようになめらかな銀色の肌に覆われた男は、ひとつも姿勢を変えず、少しだけ俯いて、わずかに片足に寄りかかるようにして斜めがかった体勢で街灯の下に立っていた。
私は男に近づき、じっと目のない顔を見つめた。男のたたずまいはなぜだか優しく感じた。
しばらくそうしていたが、男が何も言わないので、小さくさよなら、とつぶやいてその場を離れた。
振り返ると、錆びた街灯の光がその男の肩にわびしく降り落ち、陰影をつくってちらちらと光った。

その晩、夢で降っている雨は滝になり、ひとかたまりの太い棒になった。細くなったり太くなったりしながら、滝はどこまでも降り落ちた。音もなく、滝は朝目覚めるまで延々と降り続けた。
目覚めると、ついに目から大量の水があふれ出て、枕を濡らしていた。
次に夢を見た晩には、いよいよ滝は太くなり、縦に流れる大河のようになった。
最後には、私の夢は雨でいっぱいになり、海になった。


夢が海になった日の翌日、帰り道にいつもの街頭のそばを通ると、男は大きく腰を折り曲げ、今にもしゃがみこんでしまいそうなくらいに俯いていた。
私はびっくりして男に駆け寄った。男は深くうなだれ、泣いているようにも見えた。
私はその男をいとおしく感じた。
そっと背に触れると、ぽたりと、男の顔から水滴が落ちた。
あっと小さく声をあげて手を退けると、銀色の水滴が次から次へと男から落ち始めた。
顔だけでなく、手やひじ、肩からもしずくが落ちていく。どんどん速度をあげ、しまいにさらさらと音もなく男の身体は解けていった。
液状化した男の水滴は地面に銀色の水たまりをつくり、水滴が落ちるたびに、小さな銀色のしぶきをあげた。
やがて、なすすべもなく、男は溶け切って、ぜんぶ銀色の水たまりになってしまった。
雨が一粒、水たまりに落ちた。雨粒ははじかれて、つるつると水たまりの上を走って淵までたどりつき、地面に滑り落ちて染みをつくった。
私は銀色の水たまりにそっと手を触れ、優しく撫でた。
雨脚が強くなったが、私はいつまでもそこを離れることができず、水たまりの横にしゃがみこんでいつまでも鏡のような表面を見つめていた。
ふと膝に銀色が触れた。すると銀色はするすると動き出し、私を包み込むようにして辺りを取り囲んだ。
雨はますます強くなったが、いつの間にか私の身体は濡れなくなっていることに気が付いた。見ると、雨は私と男を避けて、斜めに屈折して降っているのだった。
ゆっくりと立ち上がった。
銀色の男も、するすると私の足元についてきて、足を踏み出すと、先導するように一歩先の地面を先取りして私の行く道をついてきた。
私は微笑んだ。
雨は私たちを避けて降り続けた。
その晩から、雨の夢はぱたりと止んだ。

最後まで読んでくださってありがとうございます。 わずかでも、誰かの心の底に届くものが書けたらいいなあと願いつつ、プロを目指して日々精進中の作家の卵です。 もしも価値のある読み物だと感じたら、大変励みになりますので、ご支援の程よろしくお願い致します。