アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その6の2) Georgetown University Ph.D. Program in Linguistics (分割バージョン)
表紙写真Virginia州側からPotomac河、Key Bridge、Georgetown Universityを望む(Georgetown, Washington DC, USAより)
はじめに
「アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers (その6の1) Georgetown University Ph.D. Program in Linguistics(分割バージョン)」の続き(その6の2)です。オリジナルFull Version(その6)を分割・再編集してお届けしています。
前回の補足です。Georgetownなんて場所は聞いたことがありませんでした。その筈です。宣伝は一切しないからです。アメリカは高級であればあるほど人を遠ざけます。日本と違うところです。ですから、後に地下鉄が通ることになりますが、外部から人が殺到することを恐れ駅は作らせませんでした。アメリカ建国時からの古い街並みが残り、建築規制が厳しくして景観に合わない建物は一切禁止です。ケネディー、キシンジャーなど政官界有力者、著名ジャーナリスト、外交官などがこぞって居を構え、大学でさえ敷地拡張は認められず、学生も大学の周りの窮屈な古い家を借りて住んでいました。家賃は高く多くの学生は隣接するバージニア州やメリーランド州に住み通っていました。前述した筆者の下宿はGeorgetownですが中心から歩いて30分にあるかつては労働者階級の住んでいたタウンハウスです。賄いなしで一ヵ月50ドルでした。当時皿洗いが時給2.5ドルでしたから、20時間も働けば払える金額でした。古き良き時代です。
では(その6の1)の続きです。
正式にPh.D.に入るにはQualifying Exam.For Ph.D.でHigh Passが必要と知る
確認した重要事項は、筆者がPh.D.のプログラムに正式に入れたのではないこと、これから1年程かけてMaster’s Programの授業を履修して好成績を上げ、翌年の今頃Qualifying Examination for the Ph.D.と称する試験を受け、No-Pass、Pass、High Passの3段階評価でHigh Passと判定されれば正式にPh.D.に進めるということでした。そしてQualifying Examinationは2回受験できるが、2回ともHigh Passが取れない場合は退学になる、と淡々と話しました。最初の学期に履修する授業と次の学期に履修する授業についてのアドバイスを受け、master’s programで読んでおくべき20冊の研究書と、Ph.D. programで読んでおくべき20冊の研究書のリストを手渡されました。University of Hawaii のTESL master's programからは想像もつきません。 一瞬ひるみましたが、しばらくして「やるしかない!」という闘争心が湧き、Officeを後にしました。
アドバイスに従って、1973年のFall Semesterには、Reading in Phonetics and Phonemics(954153)、Introduction to General Linguistics I(954-199)、 English Structure-Phonology(954317)、English Structure-Morphology and Syntax(954318)の4つの授業に履修登録しました。
当時GUの大学院のGrading Systemは、A(Excellent)、B+(Superior)、B(Good)、C(Fair)、F(Failure)で、Aは95点以上、B+は90点以上でした。(*5)言語学学科は特に厳しく、Ph.D.に進むのに主要科目ではA評価が必要との情報をキャッチしていました。上記4授業の内、最初の授業はPh.D.の単位にカウントされませんが、残りの3つはPh.D.の基幹授業でもあり、是が非でも好成績を上げなければなりません。
GU言語学学科大学院の殆どの授業は夜間に設置されていました。院生の多くが昼間は働いていたからでしょう。セメスター制を採っていたので、それぞれ1日置き週2コマです。筆者は、午前中キャフェテリアで働き、昼食後13時から17時までLauinger Libraryに籠りきりで勉強しました。
17時過ぎに36th StreetのWalsh Buildingの向かいのWisemiller’sというdelicatessenでサンドイッチとコーヒーを買って夕食を済ませました。その先にあるレストランThe Tombは高くて行けず、来る日も来る日もWisemiller’sのサブマリン・サンドイッチやパストラミ・サンドイッチを食べたあの日々が切なく思い出されます。
Ph.D.への登竜門Introduction to Linguistics 1(言語学序論 1)Dinneen先生
授業は過酷でした。Introduction to General Linguistics I(954-199)は、次学期Introduction to General Linguistics Ⅱ(954-200)とセットで、Ph.D. programへ向けての登竜門としての必修授業でした。履修者は12名程度、留学生は筆者とColumbia University Teacher’s Collegeからの修士号を持つ40代のエチオピア人の二人だけで敷居の高さを感じさせる授業でした。担当はChairのDinneen先生です。聖職者ですからFather Dinneenと呼ばれていました。London University School of Oriental and African StudiesでJ.R. Firthの下でPh.D.を修了したと聞きました。FirthもGeneral Linguisticsというコースを担当していたようです。テキストは先生の著書Introduction to General Linguisticsです。
13章で構成され、Fall Semesterで1~5章までの5章をカバーし、Spring Semesterで6~13章までの8章をカバーします。1~5章のタイトルは、1. Linguistics as a Scientific Study、2. The Study of Language as Sound、3. Grammar as a Formal System、4. The Development of Language Study in the West、5. Traditional Grammarです。全20コマを、毎週2コマのペースで進めます。各章が終了すると、章末の20問のreview questionsが課題として出されます。5章x20問=100問、一つ一つ難問で時間を要しました。これに、take-home mid-term examination、最後にfinal examinationが課せられ、それらを総合して成績が付けられます。テキストをしっかり読み、講義を理解しないと付いていけません。科学としての言語学とは何か、古代ギリシャから中世、近世に至るまでの言語哲学や思想、そして19世紀に科学的言語研究が芽生えるまでのいわゆる伝統文法(traditional grammar)について学びました。
Father Dinneenは、GUキャンパス内の聖職者用宿舎に住んでいました。夕方黒い制服を着て、軽快な足取りで鼻歌を歌いながらWalsh Buildingに歩いていく姿がよく見受けられました。筆者らと気軽に挨拶を交わし、食前酒に飲んだシェリー酒の匂いをプンプンさせていたこともあります。ところが、教室に入ると一変し、粛々と授業を進め、評価は厳しく(rigorous)容赦はありません。学期末のある日、ChairのOfficeの前を通りかかると、同級生のエチオピア人留学生が課題と中間テストでの低評価を巡り何やら話していました。彼は筆者ら同級生に提出課題などを見せたことがありますが、驚くほど大きい文字で書かれた課題の答案内容は筆者らの目にも薄そうでした。成績が悪いと当時政情が不安定なエチオピアに帰らなければならないと声高に訴える声が漏れてきました。(*6)Father Dinneenは、“You should work harder, then”(それならなおさらもっと勉強しよう)と諭し、一切請け合いませんでした。(*7)
2ヶ月経った10月半ば過ぎになり、アメリカ人の男子学生と女子学生、そして筆者の3人がクラスのトップ争いを繰り広げていました。筆者は、課題ではほぼ満点で彼ら2人に水を空けましたが、mid-termでは95点、彼らは共に98点で3番手に甘んじました。決着はそのままfinal examinationに持ち込まれ、以後、この2人の同期生は筆者の好敵手になりました。Father Dinneenは、淡々と授業を進め、discussionというよりはquestion-answerに好んで時間を割いてくれました。この授業での筆者の最終評価はA、これはPh.D.に向け自信を持たせてくれました。
(その6の3)に続く。オフィシャルサイトFor Lifelong English 生涯英語活動のススメをオープンしました。
(*5)当時の有名私立大学の中には既にgrade inflationが囁かれており、A+、A、A- などのgradesがありました。GUでは、そうした大学のA+、A、A―を、それぞれGUのA、B+、Bに換算したと聞きました。筆者は後に日本で大学採用人事に関わった際、アメリカの某有名私立大学の大学院から送られてきた成績証明書にこれら3種のA表記を実際に見て驚きました。ちなみに現在のGUのgrading systemがかつてのように厳しいかどうかの確たる情報はありませんが、数年前に会見したGUのEnglish DepartmentとMedical Schoolの教授達はそれを否定するコメントをしていました。学費高騰の影響もあり、新入生が卒業できる率が大学評価基準になって以来、どこも成績が甘くなる傾向があると述べていました。Gradeinflation.comとTop 15 Universities with the Highest GPA Averagesなどを参照してください。各大学の年代ごとのgrading systemをチェックすれば簡単に分かります。
(*6)当時エチオピアでは戦後体制が崩れ共産革命政権に変わる内戦状態でした。この留学生は旧体制の高官であったようで帰国すると生命に危険が及ぶ可能性があると案じていました。同じことは当時のベトナム人留学生にも起きていました。本コラムで述べましたが、1960年代から1970年代前半にかけては、アメリカ人学生も成績が悪ければ退学させられて戦場に送られた時代です。筆者ら日本人留学生には計り知れない状況であったことは確かです。
(*7)アメリカの大学では評価に納得できなければアポイントを取り説明を聞くことができます。