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アメリカ留学を振り返ってー思い出の友人・知人Memorable People(4-2)...Cal State Hayward

1972年筆者(San Francisco Pierにて友人撮影)



はじめに

「アメリカ留学を振り返ってーMemorable Teachers(4-1)...Cal State Haywardで出会った友人・知人」に引き続き、1969年から1972年の約3年間San Francisco Bay Areaで親しくなった友人・知人を紹介します。

政治的には、ベトナム戦争の戦火をカンボジアにも拡大させたNixon政権とKissinger氏の外交政策を批判する声が全米キャンパスに広がっていました。日本でも東大闘争に端を発した大学紛争が吹き荒れた1970年を境に、日本からの大学生を中心に観光や留学で渡米する人の数が一気に増えました。人だけではありません。Datsun510, Datsun 240Z, Toyota Corona, Toyota Corolla,などの日本車が、VW Beetle が独占していたセカンド・カー市場に割り込みあれよあれよという間にあちこちで見かけるようになりました。


受講者の主力は日系3世

これらJapanese coursesを立ち上げた原動力は何と言っても日系3世です。1970年Spring Quarterの登録者半分が日系3世で占められました。筆者とほぼ同年輩で、第二次世界大戦中かその直後に生まれた人達でした。終戦後の小・中学生時代には日本人であることを隠そうとする意識に勝てず、日本語や日本文化を避けるかのように思春期を過ごし、同居する日本語モノリンガルの1世とはあまり会話がなかったと異口同音に後悔していました。物心つくようになってMartin Luther King牧師の運動に啓発され、自分のルーツを誇りidentityの確立に目覚めたと述べていました。曰く、

“I want to talk more with Jiichan and Baachan in Japanese. I want to visit their hometowns to find out more about them.” (じっちゃんとばあちゃんと日本語でもっと話したい。彼らの故郷に行ってもっと彼らのことをしりたい。)

Asian American Culture Centerの活動に参加する日系3世の殆どがJapaneseを履修しており、その縁で彼らが所属するアメリカ日系キリスト教会や仏教会の祭りやバザーなどの諸行事に参加し、1世や2世と話す機会が増えました。最初に1世がアメリカ本土に来ると収容されたSan Francisco湾に浮かぶAngel Island、そして、第二次世界大戦中の収容所での屈辱的な体験を聴きながら色々考えさせられました。San FranciscoのJapan Townで3世により結成されたばかりの「気持ちの会」の行事で、1世の日本語を英語に、3世の英語を日本語に通訳したりしました。

日本車が売れるようになったのは日系社会の貢献も大

1968年から1969年の間、アメリカを広範囲に移動しても日本車を殆ど見かけませんでした。空前の和食ブームの現在では想像できませんが、醤油さえ中国製のsoy sauceは手に入っても、日本の醤油などは手に入りませんでした。California州でさえ日本料理店がある町は稀という時代です。日本の自動車をはじめ日本の工業製品や食品がアメリカで売れるようになったのは、アメリカの日系社会に負うところが大であると思っています。Cal State Haywardの日系3世の多くは、当時売り出したDatsun 511(日産ブルーバード)やToyotaのCoronaに乗っていました。

すなわち、Japanese coursesに集まったように、自分のidentityを確かめるが如く日本車にも集まったのです。日本車がアメリカの道路を埋めるようになったのはその品質の高さもありますが、当初はこうした日系人、特に、3世のパワーによるところが多かったのではと思っています。何となら、その後3世達はアメリカ社会のビジネス、政治、農業、医療、教育、法曹、中枢に進出し、活躍するようになるからです。ちなみに、日系社会にはアメリカを「父」、日本を「母」とする考え方があり、(*5)当時の日系人の家では1台目の自家用車はアメリカ車で2台目は日本車を所有していたケースが多かったのもそうした考えが表象された一例かもしれません。筆者は、同年輩の日系3世の日本語履修者から、日系社会が体験してきたこと(Japanese American experience)を学びました。

また、第二次世界大戦前に日本に教育を受けに帰った日系2世の中に、日本で結婚し、子供をもうけて戦後間もなくしてアメリカに帰って来た人達がいます。殆どが男性で帰米2世と称されますが、日本語と英語のバイリンガルが多く、その子供達の日系3世は、小さい時に日本で育ったことから日本文化への愛着が強く、柔道、剣道、空手、茶道、華道、日本舞踊に精通する人達が多く見受けられました。1971年12月30日、そのうちの一軒に招かれ、真夜中に短波放送で紅白歌合戦を聞いた事が忘れられません。日系社会にも一括りでは語れない多様性が有るのです。(*6)

日系人に混じりそれ以外のエスニック・バックグラウンドのアメリカ人も

日本語クラスは様々なethnic groupsの学生が履修しました。1970年代のアメリカはethnic identityへの意識が高く、中国系アメリカは“I’m Chinese.”イタリア系は“I’m Italian.”ユダヤ系は“I’m Jewish.” “I’m half Irish and half Polish.”などなど、家系を何世代か遡って言い始めたのもこの頃です。筆者も“I’m Japanese-Japanese.”と、日本から来た日本人であることを伝えました。(*7)

別稿「“The Five Pennies”「五つの銅貨」(1959年)」で紹介するSusan Gordonはユダヤ系で、筆者の親友の一人になるJack Wilsonは、父方がスコットランド系で母方がフランス系でした。

親友Jack Wilsonに合う


筆者自身は、履修者と同じ学生という身分であり、あまり年が離れていないことから、Japanese coursesを離れれば非常に仲の良い友達になり、家によく招かれました。その内の一人がJack Wilsonです。Cal State Haywardの柔道部と空手部に属し、1970年の夏に日本で開かれた万博に行って、日本にぞっこん惚れ込んで帰ってきました。直後のFall QuarterにElementary Japanese1を、その後IIとⅢを履修し、Independent Studyも取りました。専攻はjournalism、旅行が好きでtravel journalistになりたいと言っていました。

当時、East Oaklandは、New YorkのHarlemやLos AngelesのWatt地区に並び、犯罪が多発するゲットー(Yiddish語ghettoに由来、複数形ghettoes)として恐れられていました。East Oaklandは、African Americansの急進的活動組織Black Panther Partyの発祥地で、設立者のHuey NewtonBobby Sealeらが住んでいました。Wilson家はそうしたEast Oakland 100th Avenueの戸建に住んでいました。もっぱら白人の労働者階級の住む住宅街であったものが、いつしかもっぱらアフリカ系アメリカ人が住む住宅街になり、1970年の100th AvenueではWilson家が唯一の白人一家になりました。早くに父親に先立たれ、カソリック系小学校のスペイン語の専任教員をして生計を支える母親のMrs. Wilson、痴呆症を患った祖母、Cal State Hayward生のJackと一歳年下のDaveの4人家族でした。


2020年のEast Oakland, 100th Avenueの写真.Google Mapより


週末になるとこの家にJackとDaveの竹馬の友が集まりました。かつて100thAvenueに住んで居たという面々です。高校を出て保険外交員として働く、Clark Gableバリの2枚目Big Jim、背が高くがっちりしたUC Berkeley生のフィリピン系アメリカ人Arthur、Cal State Hayward生で甲高い笑い声が特徴のSmall Jim、Merritt College(*8)で測量を勉強して測量士になったポーランド系アメリカ人のDave、すらっと背が高く、ニヒルで知的なイケメンのダンサーのJeff。Los Angelesに住んでいるために時々しか姿を見せませんでしたが、8分の1ナバホ族の血を引いていることを誇りとしていました。ネバダの砂漠の真昼間、灼熱の太陽に向かい静かに漏らした一言が印象的でした。“I love to be warm. I hate to be cold.”

Mrs. Wilsonは、筆者やこれら自称“100th Avenue Kids”を温かく迎えてくれました。息子たちがどこかに出かけるよりも、友達が家に来てくれた方が安心だったからでしょう。筆者はとりわけよくしてもらい、Thanksgiving dinnerやChristmas dinnerにも招かれました。筆者だけではなく、Cal State Haywardや近隣の大学に通う日本人留学生も招いてくれました。日本語の全授業を取り終えてしまったJackにとっては日本語を話す機会に、日本人留学生にとってはここに集まるgood old American boysと英語を話す機会になったのです。

1979年で筆者と“100th Avenue Kids”との10年ぶりの再会: FremontのWilson家にて、向かって右上がJack、左上から二番目が筆者)

当時のSan Franciscoはヒッピー文化の中心地でしたが、Jackは一風変わっていて、1世代前のElvis PresleyやClint Eastwood(*9)の西部劇が大好きで、Napa Valley、Monterey、Carmelなどの海沿いの小さな町やNevada州やArizona州などの砂漠にある小さな町に案内してくれました。また、下火になりつつあったMLBが好きで毎年野球カードを集め、San Francisco Giants とOakland Athletics(A’s)の試合を見に行きました。


当時訪れたSierra山脈近辺の昔の町


全米切ってのスラムと言われたEast Oaklandでは一度もトラブルがなく人々は親切だった

上述したようにEast Oaklandは危険だと恐れられていましたが、昼夜を問わずWilson家には数え切れない程足を運んだにもかかわらず、危険に遭遇したことは一度もありません。East Oaklandを縦に走るメイン・ストリートのEast 14th Street界隈も何度も歩きました。人々はとても親切で、service(gas)stations、mom & pop grocery stores、hamburger shops、drug stores、news stands、thrifty stores(中古品屋)にもよく通いました。筆者が住んでいたHaywardの住宅街より活気があり、戦後の日本の闇市の匂いがして懐かしさも感じさせてくれました。Wilson家の隣近所のAfrican Americansも良い人たちでとても温厚で物静か、我々がつい大声で騒いでいると注意されたこともあります。

それもMrs. Wilsonが学校の教員としてAfrican Americansと普通に接していたからでしょう。筆者にとって、Wilson家の人々は、アメリカの家庭の温かさ、そして、アメリカの常識・慣習・作法を教えてくれた先生です。また、African Americans社会に接する貴重な場を提供してくれました。その5年後Mrs. Wilsonの定年退職を機にFremontに引っ越しましたが、以来、ずっと親しくしています。Jack とDaveは筆者にとって弟のようなもので、Jackは後にHawaiiから来た日系3世のPaulineと結婚しましたが、引き合わせたのは筆者です。それが第129回で述べたJackとPaulineとSusan Gordon(*10)の日本での小話に続きます。

左から筆者, Pauline, Tria, Allen, Jack, Walter夫妻,筆者妻,1981年12月Mrs. Mary Wilson宅

留学では大学周辺のcommunitiesに住む人々との交流を通して学べることも多いのです。Cal State Haywardがcommuter’s schoolであったことが、そうした交流の機会を増やしてくれました。地域社会はいわば学校の延長、extended schoolと考えた方が良いでしょう。他にも多くの人々との交流がありましたが、筆者のその後の日本での生き方、そして、大学での教授法に多大な影響を与えたことは確かです。

次回は1972年~1973年までのUniversity of Hawaiiでの留学生活

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(2020年1月24日記)

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