アメリカ留学を振り返ってー思い出の友人・知人Memorble People(4-1)...Cal State Hayward
表紙写真1970年筆者(San Lorenzo知人宅フロント・ヤードにて)
アメリカ留学を振り返ってーMemorble Teachers (3-3)の続き(4-1)です。1969年ー1972年のSan Francisco Bay Area滞在中は、随分多くの人々と知り合い親友ができた場所です。今ではシリコンバレーを中心に世界的なハイテク地帯ですが、当時は名画The Graduate (卒業)の舞台にもなったUC Berkeleyを中心にFlower Children文化が栄えた地域でした。華のサンフランシスコ、人々のスマイルが印象的でした。Scott MackenzieのSan Franciscoを聴きながら読んでいただければと思います。
留学ではキャンパス・ライフ以外にも近隣コミュニティーに住む人々と交流しその国の文化を学び体験する機会
拙稿「アメリカ留学を振り返って-Memorable Teachers(その3)」
留学ではキャンパス・ライフ以外にも近隣コミュニティーに住む人々と交流しその国の文化を学ぶ機会もあります。前回述べたように、California State College at Hayward(略称Cal State Hayward)は典型的なcommuter’s schoolで、学生は周辺コミュニティーで暮らします。(*1)1969年4月からの約3年間、筆者自身多くの人々との交流を通し、多民族、多文化、多言語の競争社会で互いを尊重しつつ上手に生き抜く術を身につけることができました。印象に残る何人かを紹介します。
1969年4月にCastro Valleyの下宿(boarding house)に落ち着き、Cal State Haywardに通い始めて2ヶ月、Spring Quarterの終盤の6月初旬に手元の資金はかなり乏しくなりました。当時は留学生も夏休み期間中にfull time jobを持つことが許されており、新聞の雇用欄を見て仕事を探し始めることにしました。そんなある日、下宿のオーナーの娘さんがアルバイト先の介護ホーム(nursing home)で雑役の仕事があると教えてくれました。その日のうちに連絡し、面接を受けて採用され、翌日から始めることになりました。3食賄い付きの住み込みで週給50ドルです。これで新学期までに500ドルの学費を蓄えることができます。
下宿に帰ってオーナーたちにお礼を言い、同日の夜に下宿を引き払って引越しました。それは、同じCastro ValleyにあるFern Lodgeというクリスチャン・サイエンス系の施設です。Webサイトには2019年で創立50年とあり、筆者が働いたのは設立直後ということになります。現在の施設はかなり充実しているようですが、当時は住み込み従業員の住まいとしての小さなトレーラーハウス(trailer)、そして食事、休憩のためのキッチン内の小さなテーブルが用意されていただけでした。でも、とても温かい雰囲気が漂っていました。
朝7時に作業場にある業務用洗濯機2台と業務用乾燥機2台を回し、シーツ、枕カバー、オムツ、パジャマなどを洗って乾燥させ、綺麗に畳みます。その作業の後は介護棟のトイレ、浴室、フロアの清掃です。最初は筆者と中年のアメリカ人2人で行なっていましたが、一通りの仕事を覚えてしまった筆者が、洗濯機と乾燥機が動いている間に並行して他の仕事も済ませるようになると、オーナーのMr.Coxは、それを見て中年のアメリカ人を解雇してしまいました。気の毒に思いましたが、筆者にはどうすることもできませんでした。
1ヶ月もすると、すっかり仕事に慣れ、午前中に仕事を済ませ、午後はトレーラーハウスでたっぷり勉強できるようになりました。勤務時間外でも、トイレが詰まったり、電球が切れたりすると処理してあげました。やがてMr.Coxからは倉庫の鍵を託されるほどの信頼を得るようになり、入居者(residents)、支配人(manager)、看護士(nurses)、コック(cooks)、庭師(gardeners)、出入業者ともとても仲良くなりました。Beautyという真っ黒な大型犬がおり、庭師が芝刈り機で芝を刈ると大喜びで庭を駆け回っていたのが思い出されます。
ボスや主任の家族に食事に招かれ交流
仕事以外の接点も増えてきました。アメリカ人は信頼関係が持てる人を自宅に招きます。Cox夫妻、また、名前を忘れてしまいましたが、主任看護士(head nurse)の家にも招かれ、同年代の子供さん達と仲良くなり、休日にはあちこち遊びに出かけました。入居者は40名程。真夏の夕方にはあちこちの木陰に置かれたベンチに座り、もの思いに耽る何人もの姿を見掛けました。話しかけると、それまでの自分の人生をとうとうと話してくれました。鮮明に覚えているのは、ある日の昼時、入居者と筆者ら従業員ら全員が食堂に集まり、テレビの前に釘付けになって人類初の月面着陸の様子をライブで見たことです。“Isn’t that amazing!”何人かの入居者の口から漏れました。彼らが生まれたのは1900年前後、やっと飛行機が飛び始めた頃、人生を投影しながら自ずと出た感想なのでしょう。
断片的でぼんやりとした記憶しかありませんが、クリスチャン・サイエンスとは無関係な筆者を分け隔てなく温かく受け入れてくれたことだけは確かです。決して忘れません。
日系キリスト教会元主任牧師福田先生夫妻と知り合う
同じ頃、Castro Valleyに隣接するSan Lorenzo市の日系キリスト教会の礼拝に出席するようになりました。2世や3世の為の英語礼拝と1世の為の日本語礼拝があり、そこで、元日本語主任牧師の福田先生夫妻に出会いました。福田先生は、出身の島根県訛りを残し、(*2)暖かい響きの日本語で訥々と話し、寡黙で温厚な老紳士でした。反対に、福田夫人は気さくで話し好き、阿吽の呼吸で福田先生の話しの隙間を埋めていました。
老夫妻はポルトガル系アメリカ人が所有する貸家に住み、これぞ聖職者と思わせる質素な生活を送っていました。筆者は何度も食事に招かれ、California州の日系社会について、特に第二次世界大戦中と前後の苦い体験については細部に至り聞かせてもらいました。勿論、聖書の話しも忘れません。筆者一人を相手に何気なく短くサラッと話してくれました。それにしても、夫人のあの和洋折衷の手料理、California Rose米との食べ合わせは絶妙で、今でも忘れることのできない味です。(*3)食事の前には決まって「鈴木兄弟が無事博士号をとって日本に帰れますように!」と祈ってくれました。福田夫妻から質実剛健と心の豊かさという大切なことを学びました。
Cal State HaywardのAsian American CenterからJapanese Language Courses開設を依頼され日本語講師に
1970年が明けて1月、Winter Quarterが始まって間もなくの頃、Cal State Haywardでアジア系アメリカ人が中心になって設立したAsian American Culture Centerから、Japanese language coursesを設置したいので教えてみないかとの誘いを受けました。Chinese Americans、Japanese Americans、Philippino Americansが主体の公認組織で、Chinese Americanでsociology master’s programに在籍するLee君が取りまとめ役をしていました。
なんと、筆者の日本の大学で修士号を取得していたことが決め手になり、Department of Foreign LanguagesのTA(助手)として採用されたのです。アメリカの大学院英米文学科の入学志願書では認められなかった日本の英米文学修士号が、日本語を教えるTA(助手)の資格として認められたのですから驚きです。「捨てる神あれば拾う神あり」です。これを皮切りに、日本語教員としての経歴が1978年まで続き、結局、アメリカ留学中の学費と生活費を全額賄ってくれたのです。LSUやUCSBで掛かった費用を相殺しても尚余りあるほど。何しろ貯金まで出来たのですから。(*4)
かくして、1970年のSpring QuarterにJapaneseコースが開設されました。正式名称はElementary Japaneseです。せいぜい10名位だろうと思いつつ教室に行ってみると、外国語用の小教室には入りきれないほどの大勢の学生が詰め掛け、当日は急遽大部屋に移動し、最初の授業を済ませました。大盛況です!Asian American Culture Centerの幹部が教務担当理事に掛け合い、時間帯を変えてもう1クラス増設されることになりました。Elementary Japanese Section 1とElementary Japanese Section 2という名称に改められ、筆者の手元に残るSection 2の履修者名簿には24名の登録が確認できることから、Section 1にも同数の履修者登録があったものと思われます。初日に詰め掛けた人数は少なくとも50名前後であったことになります。
1970年Spring Quarterのコース発足時には、当局は十分な事前リサーチもせず、導入コースとしてElementary Japaneseを一つ設置しておけば済むだろうくらいに思っていたのかもしれません。しかし、それは見事に外れ、導入コースを取った多くの学生からその先のコースが欲しいとの要望が寄せられ、それに応えてElementary Japanese II、Elementary Japanese Ⅲ、さらに、Japanese Independent Studiesまでが設置されることになったのです。そして、1年後の1971年からその翌年1972年に掛けて、Elementary Japanese I、Elementary Japanese II、Elementary Japanese Ⅲ、Japanese Independent StudiesのJapanese language programがCal State Haywardのカリキュラムとして定着していきます。できればElementary Japanese、Intermediate Japanese、Advanced Japaneseという名称が欲しかったのですが、残念ながら、筆者の置かれたTAという立場ではそこまでが精一杯でした。
これらのJapanese Coursesを教えながら、筆者は、前回に述べたような英文学の授業を履修するという、教員と学生の二足のわらじで、朝から晩までCal State Haywardのキャンパスで過ごす日々が続きました。それがregular quartersのみならずSummer quarterもそうであったために、1年中キャンパスにいることになりました。