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言葉が全てじゃないけれど

言葉だけが全てじゃないのはわかっている。だけど、引っかかってしまうことってないだろうか。

残業中、「うまくいかないよー」と隣に座っている同期に愚痴をこぼす。とあるシステムを触っている時に、何度もエラーを吐いてしまうのだ。

それを聞いていた友人は、「うーん、あるあるだね」と話した。

たぶん私も何も気にせずに使ってる言葉だと思う。ちょっとした会話の中で発された言葉なのであれば私も「そうだよねー」で会話を終えてると思う。

しかしわたしは、むっとしてしまった。「そうか」と、素気なく返事をしてしまった。

向こうも、「よくあることだ、わかるよ」「そういうことあるよね、大丈夫だよ」と元気付けるために言っているのだと思う。

ただ、一般化されて私のしんどさがなかったかのようにされた気がしてしまうのだ。側から見れば、今起こったことなんて世間一般で言われるような「あるある」なことだとはわかってる。

「っていうか、世間ではあるあるかもしれないけど、今のこのしんどい気持ちを軽い言葉で片付けないでよ」と思ってしまう。

「あるある恐怖症」は、面白い話をした時にも発症することがある。日常であった面白出来事を満を辞して話しているのに、真顔で「あるある!」と片付けられていることがある。

「あぁ、例え面白くなくても、その人にとっては面白い一瞬だったのだから一般化しなくてもいいのに」と思ってしまうのだ。

「悪くないね!」と言われるのも苦手だ。「良いと言われたい」からだ。しかし「悪くないね」と話す当人は誉めてあるつもりらしい。

頑張ってる人に対して、「えらいね」ではなくて、「すごいね」と言ってあげたい。えらいは上から目線の評価に聞こえてしまう。でも「偉いね」と言う本人は感嘆の気持ちを込めているらしい。

こうやって、言葉に対していちいち考えてしまう私を見て妹から一言「生きづらい人だね」。(彼女も「悪くないね」使いの人間だ)
誰かが苦しんでいる人に対して使われる表現を軽々しく使ってはならないよ……と思いながらも、ちょっと納得してしまった。

そうだなぁ、私は一人で言葉にもがいて、気にして、勝手に大変な人になっているんだろうなぁ。みんな、そんなに深く考えずに言葉を発している。悪口を言われたわけでもなしに、こんなに考える必要なんてないのかもしれない。

でも、軽々しく言葉を使って誰かの気持ちを軽く扱う人間にもなりたくない。だから、これでもいいのかもしれない。第一、くよくよ考えている私だって、自分の言葉で誰かを傷つけてることもまだまだあるだろう。

考え続けることは大事なのだと信じている。
言葉選びについて、人に押し付ける気はさらさらないのだけど、私自身はそうありたい。

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