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『ののの』太田靖久 著 書肆汽水域、初出 新潮2010年11月号(第42回新潮新人賞受賞作)~読書会へのお誘い


 個人的な話からはじめるが、2010年当時も小説は書いていた。カルチャーセンターで時々文芸誌を読むこともあった。ただ1997年ごろから小説を書いていたので、新人賞を毎年のように読んでいたこともあれば、仕事や子育ての関係で、なかなか追いきれないことも多かった。つまりこの小説は本当ならそのとき読んでいてもおかしくなかったのに、わたしがこの小説に出会ったのは今年(2022年)になる。
 2011年3月の震災があり、それから11年の時が経過している。子供の11年は長いが大人の11年は長いようであんがい短い。

 『ののの』は不思議な小説で、出だしのインパクト、それから続く家族の話、野晒しになっている白い本の山に圧倒される。父親との会話が、いわゆるふつうに交わされるなにげない会話というより、どこか象徴的で、意味が深く、心にひっかかって、ずっとこの先忘れられなくなりそうな、そういう会話。そして人物は去っていく。残されるのは、言葉だけ。言葉は紙の上の文字にならない限り目に見えないが、読者のなかに積もっていく。難しい言葉が並んでいるわけではないのに、日常の会話では口にしないような本質的なことが語られていたり、とつぜん予想外の物事が起こったりする。読み手は注意深く読むことになるだろう。物語だけを追っていたら本質を見失いそうになる。
 この小説はいったいわたしをどこに連れて行こうとしているのだろうと、途中で不安になったり立ち止まったりする。それは新しい小説をよむときにいつも感じることでもある。家族のみならず友人と呼んでいいのか分からないがそれらの人物と交わす会話もまた不穏に満ちていてわたしの気持ちをざわつかせる。
「言葉の意味をそのまま受けとるほどお前は純粋なのか?」(p.28)
 本当はいまここに「読み手の気持ちをざわつかせる」と書こうとしたのだが、それはほんとうにそうなのか、ひとつひとつ立ち止まって考えさせられる。ざわついたのはわたしの気持ちだけかもしれないし、そのざわつきが正しいのかもわからない。自分が読んでいるものについて他の人と確認しあうすべはなかなかない。
(2022/6/17 そのチャンスがありますので、この文章を読んでくださった方と是非語り合いたいです)
〈2022.6.17開催〉夜の本屋の読書会『ののの』を語ろう! 『ODD ZINE vol.7』本屋・生活綴方限定版刊行記念 | 本屋・生活綴方 (tsudurikata.life)
 
 この話はどうなるのか、とおもうと、山の頂上に立ったかのように、印象がかわっていくところがある。「僕」の現在のように読めるが、そこでも「会話」をきっかけに独自の世界が展開されていく。こちらも油断していると、いい意味でどこへ連れて行かれるのかわからなくなりそうになる。会話で言及されているような、世の中の混沌や理不尽や馴れ合いをおもい、憂いながら、ここで語られる言葉を信じてついていく。
 小説の中の会話はインパクトがあり、印象に残りやすい。
 それでも、会話で語られる言葉がすべてではなく、そこに描かれる場面だからこそ感じ取れるものがある。
 この小説のなかに、ある場所が出てきて、そこのシーンが、ものすごくわたしは好きだ。
 そのシーンはラストではないので、まだまだこの小説について語りたい気持ちはたくさんあるが、わたしがおぼつかない文章でむりやり連れて行くより『ののの』を読んでもらうのがいちばんよいので、読んでない人はぜひぜひこのチャンスを逃さずに、と思って、この文章を書いた。
 ちなみにわたしは「純粋」というか英語で言うとsimple、無知で純真で単純なほうなので、この小説を読むと、無自覚に生きてきた自分のある部分に対してけっこうグサグサきたことも打ち明けておく。いい意味で。


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